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2025年5月30日金曜日

再考「芸術体験はトラウマ体験」

 

昨日、「芸術体験はトラウマ体験」と記したことは難しいかもな、でもたぶんカントの崇高概念を通したらスッキリするよ。

自然における崇高の表象に遭遇して、心は動揺を感じる。他方、自然における美についての美的判断は、安らぎを与える観想のなかにある。崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。


Das Gemüt fühlt sich in der Vorstellung des Erhabenen in der Natur bewegt: da es in dem ästhetischen Urteile über das Schöne derselben in ruhiger Kontemplation ist. Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章)


崇高は衝撃とあるようにトラウマなんだよ、ーー《トラウマ(ギリシャ語のτραμα(トラウマ)=「傷」に由来)とは、損傷、または衝撃のことである[Un traumatisme (du grec τραμα (trauma) = « blessure ») est un dommage, ou choc]》(仏語Wikipedia)


で、崇高は不快でもある。

崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている。対象を判断する能力についての不快である。だが同時に合目的である。この合目性を可能とするものは、主体自身の不可能性が無限の能力の意識を掘り起こし、かつ心はこの不可能性を通してのみ、無限の能力を美的に判断しうるから。


Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust über das ästhetische Beurteilungsvermögen an einem Gegenstande ist, die darin doch zugleich als zweckmäßig vorgestellt wird; welches dadurch möglich ist, daß das eigne Unvermögen das Bewußtsein eines unbeschränkten Vermögens desselben Subjekts entdeckt, und das Gemüt das letztere nur durch das erstere ästhetisch beurteilen kann.  (カント『判断力批判』27章)


不快は、フロイトの定義においては、「不快=不安=トラウマ=欲動」。

不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


この意味でもあるんだよ、芸術体験はトラウマ体験だ、としたのは。昨日はジュネ=ジャコメッティしか引用しなかったけどさ。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳)


で、私の場合は、主として喜ばしきトラウマ体験だともしたが、そうでない人もいるかもしれない。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


ここでも昨日記したことを繰り返せば、フロイトにおいてトラウマは強度をもった身体の出来事だ。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕出来事が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )


トラウマが「強度をもった身体の出来事」という定義であれば、喜ばしきトラウマがあっても何の不思議でもない。


ところで、カントの記述において、崇高に関して「自らを失うことを恐れる」ともあったが、これは自己破壊としてのマゾヒズム的体験でもあるんだな、フロイト観点では(フロイトの定義においてマゾヒズムはなによりもまず受動性[参照])。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


で、原点にあるマゾヒズムは痛みのなかの快だ。

痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


さらに欲動は異者としての身体(トラウマ)でもある。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕


これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンスを引き起こす[..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


マゾヒズム的な痛み[Schmerz]ーーあるいは痛みのなかの快[Schmerzlust]ーー「痛みのなかの悦」と訳したほうがいいかもしれないーーがレミニサンスするんだよ。


これが事実上、プルーストが不快と異者用語を使って次のように記していることじゃないか。少なくとも私はそう捉えている。

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)


ラカンにおいて享楽が不快=異者=痛み=マゾヒズム=トラウマであるのも同様。

不快は享楽以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異者対象(異物)として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


で、現実界の享楽=現実界のトラウマはレミニサンスする。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


ワカルカイ、強度をもった芸術体験はレミニサンスするよ。


私が好んで引用してきたミシェル・シュネデールーー彼は精神分析家であると同時に、グールド論、シューマン論、プルースト論等を書いたフランスの高級官僚でもあるーー、この彼の言う《痛みは遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくること以外の何ものでもない》がピッタンコだな、レミニサンスの定義として。

痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)


この痛みの別名が異者だよ、先のプルーストの。あるいはフロイトの。

痛みは明らかに苦痛と対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』Michel Schneider La tombée du jour : Schumann 2005年)


シュネデールのシューマン論の核心のひとつは、遠くからのように[Wie aus der Ferne]にだ。Schumann: Davidsbündlertänze, Op. 6 - 17. Wie aus der Ferne(Zhu Xiao-Mei)

もちろんこの感覚は、『ダヴィッド同盟舞曲集』の第17曲に限らないが。



音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十七曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)


真に優れた演奏家はみなこの効果を狙ってるんじゃないかね。



ベートーヴェンの作品のレコード録音では、和声の肉付きの薄いシュナーベルのような音の響きを追求した。それに対して、レコーディング・エンジニアはこんな応答をしている。「長距離電話で聞けば、そんなふうになりますよ。」〔・・・〕音楽によって他人とそして彼自身と遠くから接触をはかろうとするのが彼の物理学と形而上学なのだ。演奏している、誰を呼んでいるのかはわからない。自分自身の内部で誰が呼んでいるのかもわからない。ふたつの遠隔地のあいだの単なる空気の振動、ただ迷っているということのほかにはなにもわからないふたりの存在を結びつけ、かすかなざわめきを発する線。〔・・・〕


もっとよく触れるために離れること、そこにグールドの美学があった。隠遁の美学であり、シトー派隠者トマ・メルトンの考え方に近いものだった。ほかの人々から離れ、そしてピアノそのものからも離れること。〔・・・〕「ピアノ演奏の秘密は、ある程度は、いかに楽器から離れるか、そのやり方のうちにある。」(ミシェル・シュネデール『グールド ピアノソロ』千葉文夫訳)