いやあ、Grokは優秀だね、入力されている分析データが限られているとか根拠がtwitter とか批判する人がいるが、全面的に信用しなかったら、そのあたりのチョロい学者よりは数段上だよ。
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基礎年金の引き上げが国会で成立した場合、現役世代の負担増加は主に社会保険料、特に厚生年金保険料の上昇を通じて発生します。以下にその影響を簡潔に整理します。
### 1. **基礎年金引き上げの概要**
- 基礎年金(国民年金)は、すべての年金受給者の基盤となる部分で、財源は厚生年金保険料と公費(税金)で賄われています。
- 立憲民主党の修正案では、基礎年金の底上げを目指し、特に会社員以外の個人事業主やフリーランスの年金受給額を増やすか、減額幅を軽減する方向です。[](https://x.com/yamabiko719/status/1925818442768068682)
- 読売新聞によると、この法案は自民党・公明党が受け入れ、今国会での成立が見込まれています。[](https://news.yahoo.co.jp/articles/309788e877686276a5ed6b921610622710368186)
### 2. **現役世代への負担影響**
- **厚生年金保険料の増加**: 基礎年金の財源強化のため、会社員や企業が支払う厚生年金保険料が増える可能性があります。 具体的には、保険料率の引き上げや、保険料負担の上限額(標準報酬月額の上限)改定が考えられます。
- **負担額の試算**: 年10兆円の財源が必要と仮定した場合、厚生年金加入者(約4,000万人)と企業が折半で負担すると、単純計算で1人当たり年間約12.5万円(月約1万円)の追加負担が発生する可能性があります。ただし、公費(税金)投入割合や経済状況で変動します。
- **働き損の懸念**: 会社員の保険料負担が増える一方、将来の年金受給額が比例して増えない場合、「働き損」の感覚が強まる可能性が指摘されています。
- **個人事業主への影響**: 国民年金保険料は現行で月約1.6万円(2025年度)。基礎年金底上げで保険料が上がる可能性は低いものの、税負担増(公費分)で間接的に影響を受ける場合があります。
### 3. **その他の影響**
- **企業負担**: 企業も保険料の半分を負担するため、人件費増加につながり、賃上げや雇用に影響する可能性があります。
- **税負担の可能性**: 公費投入が増える場合、消費税や所得税の増税が議論される可能性があり、間接的に現役世代全体の負担が増えます。
- **世代間格差**: 現役世代の負担増に対し、将来の年金受給額が十分に保証されない場合、世代間不均衡への不満が高まる可能性があります。
### 4. **不確定要素**
- 具体的な財源配分(保険料と公費の割合)や、保険料率改定の詳細は法案成立後に詰められるため、現時点では正確な負担額は不明です。
- 経済成長や賃金上昇が伴えば、負担感は軽減される可能性があります。
### 5. **現時点での対応策**
- **個人レベル**: 家計を見直し、iDeCoやNISAなど私的年金で老後資金を補強。
- **政策への関心**: 参議院選挙で年金問題が争点となる可能性があるため、政党の公約を注視。
結論として、基礎年金引き上げによる現役世代の負担は、厚生年金保険料の増加を中心に年間数万円~十数万円程度の可能性がありますが、詳細は法案の具体化次第です。引き続き、最新情報や政府の公式発表を確認することをお勧めします。[](https://news.yahoo.co.jp/articles/309788e877686276a5ed6b921610622710368186)[](https://x.com/yamabiko719/status/1925818442768068682)
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だいたい人間の見解自体が「引用の織物」だからな、自分の見解なんてのは嘘だよ。頭のなかに在庫としてある引用辞書から取捨選択しているだけさ、《もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。》(ボルヘス 『砂の本』1975年)
◼️引用の織物[un tissu de citations] |
テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。〔フローベールの〕『プヴァールとペキッシュ』、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真理を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を実現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。 |
le texte est un tissu de citations, issues des mille foyers de la culture. Pareil à Bouvard et Pécuchet, ces éternels copistes, à la fois sublimes et comiques, et dont le profond ridicule désigne précisément la vérité de l'écriture, l'écrivain ne peut qu'imiter un geste toujours antérieur, jamais originel ; son seul pouvoir est de mêler les écritures, de les contrarier les unes par les autres, de façon à ne jamais prendre appui sur l'une d'elles ; voudrait-il s'exprimer, du moins devrait-il savoir que la « chose » intérieure qu'il a la prétention de « traduire », n'est elle-même qu'un dictionnaire tout composé, dont les mots ne peuvent s'expliquer qu'à travers d'autres mots, et ceci indéfiniment |
(ロラン・バルト『作家の死』1967年) |
Grokはそのあたりの人間が抱えている《合成された一冊の辞書》ではなく途方もない大きな辞書を抱えて回答してるんだよ。そのうち修士論文程度ならGrokのたぐいのAIに任せたほうがよくなるのは間違いないね。ーーと言う私はまだ使ったことはないがね、ナンデダロ?
なぜか人工知能科学のたぐいには極力抵抗したいんだ。 |
科学はとりわけ死の欲動と結びついている[La science est liée à ce qu'on appelle spécialement pulsion de mort](ラカン、S25, 20 Décembre 1977) |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 」1933年) |
とはいえ思考のチャンクの数が減ってきたことは間違いないね。
思索における短期記憶ーーミラーの法則 短期記憶は思索においてもっとも重要となる。発生する複数の観念を動的に意識に保持する(私は「上場する」といっている。「立ち上げる」といってもよかろう)必要があるからである。たとえば、論文の執筆に際しては、書く内容に関連する重要な観念の塊、「キーワード」いやむしろ「チャンク」(かたまり)というほうがよいものを、私は、四十代にはおそらく七つほど常に意識のスクリーンの一部に掲げながら、それらの関係を考え、どのようにして、これを文章という一次元に収めてゆくかという作業にはそれほど不自由しなかった。 |
おそらく、ミラーの法則がいうとおり、成人は七プラスマイナス二の「チャンク」を使いこなしながら思索することができると一般にいうことができるのではないだろうか。一九六二年に発見されたこの心理法則は深く脳生理学に根ざしているように思われる。 非常に多くの例を挙げることができるが、精神医学に例をとれば一般にユースフルな分類はおおよそ七分類である。それぞれの分類に七つの下位分類を設けることによって、四九分類、それにさらに七つ以下の下位分類を設けることによって三四三分類をこなすことができる。たとえば抗精神病薬は多数あるが、私は長らくこの方法を意識的に用いて全部を記憶することができていた。それは三〇〇よりも少し少ないからである。〔・・・〕 さらに圧倒的大多数の性格分類は三ないし四分類である。 ヒポクラテスから始まって、現代の血液型分類に及ぶ。男女を掛けて八つになる。やはりミラーの法則に従っている。性格が四大別されるという科学的根拠はないので、四大別は微妙な差を認識する際の「脳の都合」であると私は考える。〔・・・〕 |
実際、ミラーの法則は平等な七というより、四+三、あるいは四×二という内部分化があると私は思う。市内電話番号が前者であり、後者が精神分裂病の分類、八綱弁証、性格分類などである。七つ道具でもメインの四つとサブの三つがあると思う。逆の場合すなわち三+四も同程度によく見られるところである。 ミラーの法則が扱っている対象はチャンクというように、一つの観念内容を入れる容器のようなものであって、その都度、その容器にレッテルを貼って観念とするというほうが妥当であろう。また、この法則は短期記憶にも長期記憶にもあてはまる。 「七つ道具」という場合には、具体物あるいはそのイメージの長期記憶であろうが、 電話番号の場合は純粋な短期記憶の容量であり、性格分類を実際の人間集団にあてはめる場合には、対象から切り取った何ものかは短期記憶に近いものである。 |
一般に思索においては、どこからか湧いてくる観念あるいはその前段階を脳裡に複数個保持しなければならない。それも、観念、より正確には「その反応ー結合ー融合性の高さ」によって私が仮に「観念のフリー・ラジカル」と呼んできた観念の前段階状態にあるものがむやみに反応し結合するのをある限度以上に抑え、時宜に応じて交代させつつ、保持しなければならない。発言や執筆においては何時間もこの保持を継続しなければならない。ところが観念というものはたえず変形しようとし、他の観念を呼び、また他の観念と結合しやすい不安定なものである。発言や執筆の際には、群がる観念を文章という一次元性のものに整頓しなければならない。それは、われわれと群がり、ともすればあちこちに散らばろうとする学童を一所懸命一列に並ばせようと声をからしている小学校の先生の努力に似ている。その際に、まず観念の数をミラーの法則の範囲内に減らして、それからその相互の関係を考えるという順序となるだろう。この能力が年齢とともにどうなるかである。 |
私が同時に保持できる「チャンク」の数が減ってきたことを意識したのは五十歳を二、三年過ぎた時であった。これは私の五十一歳が「中仕切り」の年であって、訳詩の能力が結婚式の式辞代わという偶然を契機に出てきた年であり、それが高じて、その一年で翻訳したある詩人の全詩集が三年後に思いがけず重い文学賞を頂き、その他にも多産な年であったために、余計意識されたのであろう。万事そうであるように、私もこの減少を意識したことによって改めて、かつての私が七つ前後の観念を「上場」できていたことに気づいたのである。それができていた当時は、私の意識はもっぱら思考の目標を見据えて観念を操作していて、 上場観念の数などを意識することはなかった。何ごとであっても問題なしという時には意識されない。意識というのはその過程に何かの妨害や限界設定がなされた時の意識の意識として登場するものである。 |
なお、意識の意識の意識という過程は無限後退的過程であって、逆理的ではないかという意見が古くから存在するが、ポール・ヴァレリーという内省家のノートには「意識の意識」をもう一度意識することはできないという一節があり、誰でもそうだと思うが、無限後退は実際には起こらない。それではどういう過程になるかというと、遺伝情報の発現の制御と同じく、どこかで制御されているものが制御することによって過程は円環として閉じることになるのであろう。 遺伝情報の発現の制御の場合には生産された酵素なり何なりが制御するものに転化するのである。思考の場合は何であろうか。おそらく、それは言語の完成と発語あるいは執筆であろう。特に文字言語はその一次元性によって高度の制御能力を持ち、意識の無限後退を円環的に閉じてくれると私は思う。 |
ロールシャッハテストの内容は五十歳を過ぎると急速に貧困化するという指摘が思い出された。実際、私は、そのころから同時にせいぜい三個の「観念自由基」しか「上場」できなくなったことに気づいた。現在、これを執筆中に私が「上場」しているのは、せいぜい二つかそこらである。もっとも控えの間ともいうべきところには相変らずはっきりしない数の観念自由基がうごめいている。執筆に際して、ワードプロセッサーがなければ、私は短期記憶の衰退をもっと意識したかもしれない。ワードプロセッサーは臺弘氏が指摘されるように思索のよい松葉杖である。 「ミラーの法則の縮退」は、老人にとって知的・感情的活動の大きな制約となると私は思う。私は自ら「思索の底が浅くなった」と感じる。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
……というわけで、いつもの如く《合成された一冊の辞書》からの《引用の織物》でした。
おっと、ちょっと待てよ、これ言っておかないとな。「自分の見解」はないにしろ、「自分の音調」はあるからな、間違いないように。 |
言葉と音調[Worte und Töne ]があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもののあいだの虹、仮象の橋ではなかろうか。 Wie lieblich ist es, dass Worte und Töne da sind: sind nicht Worte und Töne Regenbogen und Schein-Brücken zwischen Ewig-Geschiedenem? 〔・・・〕 モノに名と音調が贈られるのは、人間がそれらのモノから喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいのモノの上を舞って行くのだ。 Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年) |
音調というのは結局、「自分の身体」ということであり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない [mon corps n'est pas le même que le vôtre]》(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)だ。他方で、言語なんてのはすべて「他人の言葉」だよ