新疆ウイグル自治区、喀什(カシュガル)の旧市街か。ウットリさせられる風景だな。
イスラム文化なのだろうよ、ここは。
ほかにも例えばここに素晴らしい写真がいくつもある➤「カシュガル旧市街、それはまるで異国の物語の世界 | 敦煌・カシュガル旅行記」
一体に人間はどういうことを求めて一人で飲むのだろうか。そうして一人でいるのに飲むことさえも必要ではなさそうにも思えるが、それでも飲んでいれば適当に血の廻りがよくなって頭も煩さくない程度に働き出し、酒なしでは記憶に戻って来なかったことや思い当らなかったことと付き合って時間が過ごせる。併しそれよりも何となし酒の海に浮かんでいるような感じがするのが冬の炉端で火に見入っているのと同じでいつまでもそうしていたい気持を起こさせる。この頃になって漸く解ったことはそれが逃避でも暇潰しでもなくてそれこそ自分が確かにいて生きていることの証拠でもあり、それを自分に知らせる方法でもあるということで、酒とか火とかいうものがあってそれと向かい合っている形でいる時程そうやっている自分が生きものであることがはっきりすることはない。そうなれば人間は何の為にこの世にいるのかなどというのは全くの愚問になって、それは寒い時に火に当り、寒くなくても酒を飲んでほろ酔い機嫌になる為であり、それが出来なかったりその邪魔をするものがあったりするから働きもし、奔走もし、出世もし、若い頃は苦労しましたなどと言いもするのではないか。我々は幾ら金と名誉を一身に集めてもそれは飲めもしなければ火の色をして我々の眼の前で燃えることもない。又その酒や火を手に入れるのに金や名誉がそんなに沢山なくてはならないということもない。(吉田健一『私の食物誌』) |
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本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのは常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(吉田健一『酒宴』) |
いやあいつ読んでも名文だな、 |
新潟の筋子──「今でも新潟と聞くと筋子のことが頭に浮かぶ。それも粕漬けがいい。(中略)粕漬けだと筋子が酒に酔うのか他の漬け方では得られない鮮紅色を呈して見ただけで新潟の筋子だと思う。〔・・・〕肴なしで飲める日本酒という有難い飲みものの肴にするのは勿体なくて食事の時に食べるものだという気がする。その上に白い飯の上にこの柘榴石のようなものの粒が生彩を放つ。」 氷見の乾しうどん──「これは実際に食べたことはないが京都の寺などで夏にやる米の食べ方に就て聞かされた話で、それは確か米を先ず炊いてから渓流の清水に浸して洗い落せるものは凡て洗い落し、その後に残った米粒の冷え切った核のようなものを椀に盛って勧めるというのだった。京都の酷暑を冒して食べに行ってもいいという気持にさせるもので、まだそれをやったことがなくても氷見の乾しうどんの味でその話が久し振りに頭に浮んだ。ただうどんの俤を止めるだけで他のものは一切なくなり、又その俤が滅法旨い味がするというそういう代物である。」 中津川の栗──「その甘味は栗のもので舌に触る粒が粗くて僅かに粘るのも栗を感じさせる。先ず旨い栗を食べているのに近くて栗というのは皮を剥くのが指に渋が付いたりして面倒であるが、これにはその心配もない。それでも菓子には違いなくてもこの菓子はつい箱を開けてまだ幾つ残っているか見たくなる。」 近江の鮒鮨──「その幾切れかを熱い飯に乗せて塩を掛けて食べるのであるが、それにはその頭の所が最も滋味に富んでいるというのか妙であるというのか、そう言えば大概の動物が頭が旨いのはやはりそこに一番いいものが集っているのだろうか。〔・・・〕人間も含めて凡て動物というものの体の構造から鮒も頭が全体に比べて少ししかないのが残念に思われる。」(吉田健一『私の食物誌』) |
というわけで喀什(カシュガル)旧市街の写真が、静謐に流れる時間に浸る「生きる悦び」を想い起させてくれたよ、 |
冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いものでも短いものでもなくてそれが時間というものなのである。それをのどかと見るならばのどかなのは春に限らなくて春は寧ろ樹液の匂いのように騒々しい。そして騒々しいというのはその印象があるうちは時間がたつのに気付かずにいることで逆に時間の観念が失われているから騒々しい感じがするのだとも考えられる。例えば何か音がしていれば時計の音が聞こえなくてその理由が解っていても聞こえる音の為よりも時計の音が聞こえないで落ち着かないということもあり得る。併し時計の音を挙げるのも必ずしも的確ではなくて時間がたって行くのを刻々に感じる状態にあるから、或は刻々の観念も既になくて時間とともにあるから時計の音も聞こえて来る。或はその音が聞いている方に調子を合せる。( 吉田健一「時間」) |
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日差しが変って昼が午後になるのは眼に映る限りのものが昼から午後に移るのでその光を受けた一つの事件もその時間の経過によって人間の世界に起った一つの出来事と呼んで構わない性格を帯びる。もし時間が凡てを運び去るものならばそこに凡てがなくてはならない。そういうことを考えていて唐松は一般に陳腐の限りであるように思われて脇に寄せられていることがその初めの意味を取り戻して時間のうちにその手ごたえがある形を現すのを見た。それが例えば人生であって人間が生れて死ぬまでの経過はそれとともに時間が運び去つた一切があつてその人間の一生と呼ぶ他ないものになり、そういう無数の人間の一生がその何れもが人間の一生であるという印象を動かせなくしてそこに人生がその姿を現す。又一日は二十四時間でなくて朝から日が廻って、或は曇った空の光が変って午後の世界が生じ、これが暮れて夜が来てそれが再び白み始めるのが、又それを意識して精神が働くのが一日である。そのことを一括して言えばそれが生きるということだった。(吉田健一『埋れ木』) |