このブログを検索

2025年8月21日木曜日

お嬢さん向け「トラウマの回帰」

 

あのね、何度も繰り返してきたつもりだが、わかりやすく言えば、フロイトの「抑圧」概念の意味合いは、大きく言って三段階あって、①『夢解釈』(1900年)以前、②『夢解釈』以降の10年、③1911年の『症例シュレーバー』以降があるんだ。


①と③の段階でのフロイトが「抑圧」という時は、主に抑圧の第一段階としての原抑圧(固着)であり、②は後期抑圧だ(参照:原抑圧と後期抑圧)。(もっとも『夢解釈』の段階でも解釈に抵抗する《夢の臍[Nabel des Traums]》概念があったり(事実上の原抑圧)、1916-1917年の『精神分析入門』の特に前半は1910年代の思考の振り返りの部分があり、後期抑圧に相当するものを語っているが。)


ところが、大半の研究者はいまだもって後期抑圧がフロイトの抑圧自体だと思い込んでいる。つまり「忘れられた原抑圧」(参照)だ。フロイト学者であってさえもその気味合いがあるので、フロイトプロパでない精神医学者は殆ど皆そうだよ[例えば➤参照]。まずおさえるべきはここだね。そして以前、「抑圧は誤訳」で示したが、抑圧という語には抑するという意味も圧するという意味もない。これが第二だな。実際は次のような用語群に代替すべき語だ。





まずこれらをおさえてから質問してきてくれよ。別にケチるつもりはなく、「正しく」問われたら答えるからさ。


で、ここではひとつだけ言っておけば、「ラカンの現実界はフロイトの原抑圧(固着)」だよ。現実界つまり現実界の享楽であり、享楽の回帰は原抑圧されたものの回帰だ。ーー《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



で、享楽はトラウマだ。

享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


ーー《享楽はトラウマの審級にある[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)、《われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]》( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


つまり享楽の回帰はトラウマの回帰だよ。これはフロイトの次の文に相当する。

結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


不安とは不快であり、享楽だ。

不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



まずこれが基本。さらに、フロイトは最晩年に次のように言っている。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


この抑圧は、抑圧の第一段階としての原抑圧であり、つまり(原)抑圧されたものの回帰=トラウマの回帰だ。



原抑圧

Urverdrängung

抑圧された欲動[verdrängte Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] (フロイト『精神分析入門』第23講、1917年)

抑圧されたトラウマ[verdrängte Trauma](フロイト『精神分析技法に対するさらなる忠告』1913年)

後期抑圧

Nachverdrängung

抑圧された願望(欲望)[verdrängte Wünsche](フロイト『夢解釈』第5章、1900年)

抑圧された表象[verdrängten Vorstellungen](フロイト『夢解釈』第7章、1900年)

抑圧された思想[verdrängten Gedanken ] (フロイト『夢解釈』第7章、1900年)


フロイトに於いて「欲動=トラウマ=固着」であり(参照)、(原)抑圧された欲動の別名は、排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年)。(ちなみに排除は解離 [Dissoziationと等価)。つまり排除されたトラウマの回帰が、抑圧されたものの回帰の原点にあるものであり、さらにこのトラウマは通常我々が使う意味よりも広い意味があり、強度をもった出来事、あるいは自己身体の出来事を意味する。


出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt] 〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen](フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )



ーー個人の歴史だけでなく、人類の歴史においても、例えば「ナチスの回帰」、日本における「戦前の回帰」もこの「強度をもった出来事の回帰」としてのトラウマの回帰だよ。



で、最後にラカンに戻って言っておけば、巷間の「ラカン評論家」は寝言しか言っていない。そもそも連中は享楽と剰余享楽の区別さえまともにできていない。

剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する。

Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance (Lacan, S16, 15  Janvier  1969)

対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える。

C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a).  Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a).   

(Lacan, S16, 13  Novembre  1968)



以上、これだって結構「高度」だろ。少なくとも日本の「標準的な」学者センセにはチンプンカンプンの話だよ。だからそれよりずっと難解な「抑圧された女なるもの」の話は、これを消化してからにしてくれよ。


女なるものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女なるものが抑圧されているのと同じように[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme](ラカン, S16, 12 Mars 1969)


これ自体、1890年代のフロイトが既に言ってんだがね。

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと思われる[Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist ](フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)


で、この女なるものは生物学的な女性じゃないんだがな、文脈上。でもこの話は「今は」しないでおくよ、長くなるから。