私はこのところ、巷間の日本人は南京虐殺を語るのに熱心なのに、何故この今のガザ虐殺に殆ど無関心なのだろう、という問いをひそかに抱いている。
以下の福沢諭吉と丸山眞男の儒教批判ーーというより、福沢を通した丸山眞男の儒教批判のいくつかがひょっとしてヒントになるのではないか、と思い、ここに掲げる。
抑も我輩が只管儒教主義を排斥せんとする所以のものは、決して其主義の有害なるを認めたるが為めに非ず。周公孔子の教えは忠孝仁義の道を説きたるものにして一点の非難もなきのみか、寧ろ社会人道の標準として自から敬重す可きものなれ。此点より見れば単に儒教のみならず、神道と云ひ、仏教と云ひ、道徳の教えを説くの一段に至りては孰れも同様にして、〔・・・〕。儒教主義は周公孔子の唱えたる教にして、本来は純粋無垢のものなりしかども、今は既に腐敗したり。否な、その腐敗はすでに幾百年前よりのことにして、本来の真は全く見る可らず。即ち流毒の甚だしき所以にして、その時は主義の罪に非ず、腐敗の結果と認む可きのみ。〔・・・〕儒教本来の主義は純粋無垢にして毫も非難す可きの点を見ずと雖も、其腐敗の余毒、国を害するに至りては断じて恕す可らず。 我輩の極力排斥してす毫も仮借せざる所以なり。(福沢諭吉「儒教主義の外部へその腐敗に在り」) |
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けだし学問的対象としての儒教の如きは到底その論理的精緻と体系的整序性に於いて近代科学の前に堪えないであろうから、さほど問題とするに足りない。また儒教が単に封建的支配者の上からの説教にとどまり、或はなんらかの制度的表現を持っただけなら、そうした支配者の排除乃至は制度の消滅とともに、その影響も程なく薄れるであろう。しかし、ひとが数百年に汎って慣れてきた思惟範型は殆ど生理的なものとなっていて、たとえそれが本来的に適応した対象ーこの場合は封建社会-が消滅した後でも、容易に拭い去る事は出来ない。(丸山眞男「福沢諭吉の儒教批判」1942年) |
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◼️儒学の根本的な間違いは、家庭の中、家庭の中で行なわれる関係を、他人と他人との関係にそのまま及ぼそうとすることにある |
政治、いやもっと広くいえば社会というものは、他人と他人との付き合いだというのが福沢の根本的な前提です。儒学の根本的な間違いは、家庭の中、家庭の中で行なわれる関係を、他人と他人との関係にそのまま及ぼそうとすることにあるというのです。…明治後半期になると、「家族国家論」のイデオロギーが登場しますし、大正時代になると企業一家といった考え方も出てきます。この点でも近代日本の考え方は、福沢とは反対の方向に逆行していると言えます。皮肉なことに維新直後の方が他者感覚があり、社会関係について、骨肉の愛情が適用される範囲の限界、という認識があった。逆にいうと、それだけ虚偽意識から免れていたということになります。(丸山眞男「文明論之概略を読む」1986) |
◼️中国の儒教は普遍宗教ではなく、赤の他人同士の道徳はない |
「(「アムネスティが今直面しているのは、‥人権というものの普遍性を持ちながら、どう現場の課題につなげたらいいのかという悩み」という発言を受けて)それは全ての問題です。近代的な抽象語は、全部翻訳語ですから。人権だけじゃないです。自由も、平等も、みなそうです。‥あらゆる抽象語は大和言葉ではないんですよ。だから全部漢語を使った。漢語、あるいは仏(ぶつ)語ですね。面白いんです。平等(びょうどう)と言うでしょ。もしも平等を漢語で読めばヘイトウです。なぜ呉音でビョウドウと言うかというと、漢語ではないからです。‥ビョウドウという仏教語はある。だからビョウドウという呉音で読むんです。なぜか。それは‥普遍宗教というものがはじめて平等観念を生んだということの一つの証拠なんです。 中国の儒教は普遍宗教じゃないんです。最も高度な哲学を持った特殊宗教です。なぜなら儒教の基本的な道徳は、五倫なんです。‥(君臣・父子・夫婦:・兄弟・朋友の中の)朋友は友だちでしょ。友だち以外の人はたくさんいるわけ。赤の他人。友だちじゃないわけですよ。それについての道徳がないんです、儒教には。結局どう解釈しているかと言うと、朋友の観念を推し及ぼすという。赤の他人同士の道徳はないんです。なぜないのか。つまり、特殊主義的な哲学だからです。つまり、ただの人間なんてものはない。‥今でも日本は強いでしょ、人間なんて抽象概念で、ないじゃないかと。日本人、アメリカ人、フランス人なんてのがあるだけで、ただの人間なんてものは存在しないんだという。これはやっぱり儒教がそういう考え方なんです。ただの人間という観念が存在するということを教えたのが、普遍宗教。キリスト教だけでなく仏教にもある。」(丸山眞男「手帖54ーー「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.) |
◼️儒学は人間性に対するナイーブな楽天主義を表現している |
儒学の古典、したがってまた江戸時代の学者の論著においてしばしば出会うのは、人は礼をもつことによって禽獣と区別される、とか蟄居して教なければ、禽獣と同じになるとかいう発想である。 キリスト教の原罪的思想から見れば、こういう命題は、逆にいえば、礼を習得しさえすれば、教を受けさえすれば、人倫が実現されるという意味を含んでいるから、人間性にたいするナイーヴな楽天主義を表現していることになるだろう。しかし人間がどこで禽獣と区別されるのか、人間の尊厳の根拠はどこにあるのかが切実な問いとして意識されなければ、あれほどのくどさで右のような命題をくりかえすこと自体がそもそも起りうる筈がない。つまりこういう命題の背景には、人間と禽獣とはほとんど紙一重の差しかなく、したがって、その紙一重のしきりが破られた瞬間に人間行動は禽獣と同じレヴェルに顚落する。その顚落の可能性は、昔々あったのではなく、いつでも、只今この瞬間にもあるというクリティカルな意識が流れていたわけである。テクノロジーの進歩によって、人間と動物との文明度のギャップが日常的な見聞事においてあまりにも顕著になったために、人間の動物からの倫理的進化は、生物学的進化と同様に太古の出来事としてしか受取られなくなり、そのことによって、かえって人間存在の危機一髪的性格が切実に感じられなくなってしまった。儒教の右のような命題を陳腐なお説教としてわらう事しか知らない現代人は、その行動様式においてますます動物的になりつゝある。おそるべき逆説がここにある。(丸山真男「対話」昭18.) |
◼️ 中国の儒教は普遍宗教ではなく、赤の他人同士の道徳はない |
性の中に「本然の性」と「気質の性」と二つあって、聖人というのは「気質の性」が空(そら)みたいに清浄なんだ。空の聖人というのは、理想人で現実にはいない。普通の人間は、気質の性と同じ。気質の性というのは雲みたいなもので。その考え方は、キリスト教なんかから見れば、オプティミズムなんだけれど、〔儒教の〕根本は性善説ですから。本然の性というのは、本当は、みんないいんだと。これは、政治にも共通している。太陽みたいなもので、それを雲が覆っちゃっているという。雲が晴れた状態というのはないんだ。それは聖人だけなの。空は透明だから、太陽がサーッと。あとは、雲に隠れちゃう。これが普通の人。だから、雲をだんだん純化していって、中の太陽がまっすぐ照るようにするのが修養。簡単に言うと、朱子学の哲学です。そういう儒教の考え方を通じて日本では、修養とは克己とか、それが一つの流れ。 もう一つはやっぱり侍だな。なぜかと言うと、侍には戦場での死という問題がある。死ぬのが恐い自分をどうやって克服するかが、自分の中の問題。戦闘者という自覚があるんです。本当にあるべき自分と、実際に自然の形に引きずられる自分というのが。これは、やっぱり死の問題。宗教は死の問題なのだけれども、侍というのは別の意味でそれがある。… 死の問題は、他の人に代わってもらうわけにはいかないから。個の意識というのが宗教とともに生まれるというのは、そういうことなんです。‥死の問題を考えていくと、世界宗教が世界中どこでも個の意識を生む。そうじゃないと、われわれは家の中に生まれ、社会に出るから、個の意識なんていうものは生まれない。家ではみんな社会的存在なんだ。‥個なんてものは抽象であって出てこない。個というものを本当に抽象的じゃなくて認識するのは、やっぱり、死の問題。世界宗教が仏教、イスラム教、キリスト教、みんな個の意識があります。 儒教は世間道徳だから、非常に生まれにくいんだな、個の意識は。みんな世間のため、君のため、親のため、みんな、「ため」があるから。(手帖41「丸山眞男先生を囲む会(場)」1993.7) |
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◼️儒教倫理は秩序に順応することが最高の道徳になる |
(「マックス・ウェーバーは何かさういふことを言つてゐますか」という問いかけに)直接にはないんですけれども、全体の考へがさういふことにふれてゐると思ひますね。ウェーバーは儒教倫理とピューリタンの倫理と比較して、儒教倫理は「世間」と「自分」との距離を絶えず埋めて行かうといふ倫理であり、従つてそこでは秩序に順応するといふことが最高の道徳になる、ところがピューリタニズムは、さういふ順応は被造物を神化するといふ建前から絶対に拒否するのです。そこで「世間」との間にたえず緊張が保たれ、そこから儒教と逆に秩序を合理化して行かうといふ内面的な欲求が生れて来る、といふのです。」(手帖52「歴史と政治」1949.6) |
◼️日本のパブリックはお上(共同体がパブリックの観念の発達を阻害している) |
『文明論之概略』で福沢は何を言っているかというと、「日本人に公共精神がない。井戸ざらいの相談もできない。道路の普請もできない」と。つまり隣の人と組むという発想がない。というのは伝統的共同体というのはウチ・ソト発想ですから、ウチというのはいろいろな同心円です。‥つまり、パブリックの観念が発達しないということを、福沢はまさにそこで言っているんです。というのは、共同体が逆にパブリックの観念の発達を阻害している。私は軍隊で実にそれを体験しましたね。そっとゴミやなんかを隣の班に掃くんです。そのエゴイズムはひどいもんです。今でもそうじゃないですか。だからパブリックの観念が発達しない。道路が発達しない。公園が発達しない。つまり維新の時にみんなびっくりしたのは、公園や病院の存在です。こういうものはみんなパブリックな施設ですから、当時の日本には全部ないわけですよ。というのは、パブリックの観念がないから。日本でパブリックというと、お上なんですよ。お上が全部やってくれる。公というのはお上、"上"なんです。[日本では]パブリックは横の観念じゃないんです。横の観念というのは、かえって個人主義、個人主義といわれているヨーロッパに発達している。‥さわらぬ神にたたりなしというのが、逆に言うと一種の共同体根性なんです。 |
ですから思想史的にいえば、個人主義というのは、手を組む、手を組んでデモをする、つまり隣の人と組む思想なんです。およそ実体的な真っ裸な個人を想定していうわけではありません。‥伝統的な共同体からはそういう公共精神というのが純自発的、純内在的に出てくるか、と言うと私は出てこないと思う。無限の同心円ですから。その無限の同心円のいちばんソトに国という同心円がある。‥飛行機が落ちると、"日本人が誰もいなかった"って報道されるでしょ。とんでもない。どうして日本人がいなかったら嬉しくて、外国人が死んだことには無関心なんですか。それが伝統的共同体意識。これを徹底的に打ち壊さなければいけない。打ち壊さなければ一人の人間という意識が出てきません。日本であろうと外国人であろうと、隣に住んでいる人と手を組むという意識は出てきません。パブリックの意識は出てきません。(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6) |
◼️日本の儒教は中国儒学をそのまま適用していない |
日本思想の特質ということは、『日本政治思想史研究』を書いたときから考えていました。だって、江戸時代の儒教をやっていると、日本の儒教の特質ということにすぐぶつかるんですから。具体的に言うと易姓革命問題なんです。中国はしょっちゅう王朝が変わるでしょ。それ[を正統化するのが儒教です]、暴君は放伐していいというのが儒教思想ですから。日本は暴君放伐を機械的に適用すると困っちゃうわけです。日本はなぜ王朝が変わらないのか。だから、中国儒学をそのまま適用しちゃいけないという考え方が江戸時代の初めから出てきてるわけです。‥その問題を江戸の儒者は儒者なりに、国学者は国学者なりに、解こうとしているわけです。 だから、‥勉強して、ある問題に直面して、その問題を解こうとした。だから、僕が純粋に頭のなかで考えたことは非常に少ない。そういう先人の業績を受けているわけです。受けていて、そして日本の思想史というものにおける不変化の要素と変化の要素との関連というものは何だろうかということが、僕の問題意識にあった。(手帖19「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(上)」1985.3) |