少し前、西脇順三郎、前回、金子光晴を掲げたがね、詩人を読まないとダメだよ。女に惚れないとな、 |
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair]. (Lacan, L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72) |
他の性 (大他者の性[Autre sexs])は、両性にとって女性の性である。男たちにとっても女たちにとっても女性の性である[the Other sex as such, for both sexes, is the female sex. It is the Other sex both for men and women. ](J.-A. MILLER, The Axiom of the Fantasm, 2009) |
ドゥルーズはプルースト論でこう言ってるがね、
(プルーストの)『見出された時』の大きなテーマは、真理の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも詩人が重要である。 |
Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci: la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète. |
〔・・・〕 |
恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。 |
Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art. |
(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年) |
ラカンならこうだ。
フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを。 |
c'est de se rappeler avec Freud qu'en sa matière, l'artiste toujours le précède et qu'il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie. |
(ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ (HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS )」AE193、1965年) |
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ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。 |
Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. |
(Lacan, S24. 17 Mai 1977) |
先のラカンがデュラス論で、《フロイトとともに思い起こさねばならない》と言っているのは、まずは次の文であるだろう。
われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして詩人は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。 |
Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen |
(フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年) |
というわけだが、ここでは二人の詩人による「愛の起源」を掲げておくよ。
愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。 あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。 彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」 |
Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là. |
(マルグリット・デュラス『死の病( La maladie de la mort)』1981年) |
かわいそう 谷川俊太郎 |
わたしはともだちにうそをつくけど おとなってじぶんにうそをつくのね わたしはからだがちいさいけど おとなってこころがちいさいのね わたしはのはらであそびたいのに おとなってほんとはおかあさんの おなかのなかにもどりたいのね それなのにおかあさんはもういない おとなってこどもよりずっとずっと かわいくてかわいそう |
なんでもおまんこ 谷川俊太郎 |
なんでもおまんこなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな すっぱだかの巨人だよ でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな 空だって色っぽいよお 晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ 空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ どうにかしてくれよ そこに咲いてるその花とだってやりてえよ 形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ 花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお |
どこ行くと思う? わかるはずねえだろそんなこと 蜂がうらやましいよお ああたまんねえ 風が吹いてくるよお 風とはもうやってるも同然だよ 頼みもしないのにさわってくるんだ そよそよそよそようまいんだよさわりかたが 女なんかめじゃねえよお ああ毛が立っちゃう どうしてくれるんだよお おれのからだ おれの気持ち 溶けてなくなっちゃいそうだよ |
おれ地面掘るよ 土の匂いだよ 水もじゅくじゅく湧いてくるよ おれに土かけてくれよお 草も葉っぱも虫もいっしょくたによお でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ 笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ |
………………
蛇足かもしれないが、フロイトの散文も。
哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕 この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。 |
Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. |
(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年) |
こういった味気ない文よりはやっぱり詩人ニーチェがいいね。
愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode]。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる[Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年) |
真理への意志ーーそれは隠された死への意志でありうる[Wille zur Wahrheit“ ― das könnte ein versteckter Wille zum Tode sein](ニーチェ『 悦ばしき知』第344番、1882年) |
おそらく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?おそらくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |
中国の古典だったら道学者孔子のたぐいじゃなくて何よりもまず詩人老子だよ。
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」) |
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳) |
孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。(老子『道徳経』第二十一章) |
女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。(同「孔徳之容」保立道久訳) |
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。(老子『道徳経』第二十章) |
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学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。 だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人は学識を尊敬してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。 |
だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。 衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。 |
みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。 |
衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。しかし、そうはいっても、私は違う。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。(老子『道徳経』第二十章、保立道久『現代語訳 老子』) |
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ラカンはフロイトほど散文的ではないがね、若い頃シュルレアリズムにイカれていたせいもあって。逆にそのせいで「マジメな」日本のラカン学者はラカンを読めないという不幸はあるがね。
私の穴のシニフィアンS(Ⱥ)、それは「大他者はない」ということである。無意識の場処としての大他者の補填を除いては。 〔・・・〕 人間のすべての必要性、それは大他者の大他者があることである。これを一般的に神と呼ぶ。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである。 |
mon S(Ⱥ). C'est parce qu'il n'y a pas d'Autre, non pas là où il y a suppléance… à savoir l'Autre comme lieu de l'inconscient(…) La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». |
女なるものを"La"として示すことを許容する唯一のことは、「女なるものは存在しない」ということである。女なるものを許容する唯一のことは神のように子供を身籠ることである。唯一、分析が我々に導く進展は、"La"の神話のすべては唯一の母から生じることだ。すなわちイヴから。子供を孕む固有の女たちである。 |
La seule chose qui permette de la désigner comme La… puisque je vous ai dit que « La femme » n'ex-sistait pas, …la seule chose qui permette de supposer La femme, c'est que - comme Dieu - elle soit pondeuse. Seulement c'est là le progrès que l'analyse nous fait aire, c'est de nous apercevoir qu'encore que le mythe la fasse toute sortir d'une seule mère - à savoir d'EVE - ben il n'y a que des pondeuses particulières. |
(Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
ーー《どの穴も女性器の裂け目の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ]》(フロイト『無意識』第7章、1915年) |