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女たちは男以上に男である[les femmes sont plus homme que l'homme](Lacan, S24, 10 mai 1977) |
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このラカンの言っていることは「女たちは男以上にファルスである」ということだ。 |
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一般に考えられている事とは異なり、ファルスの本質は音声(パロール)の機能であり、このファルスは男を代替する[c'est là l'essence du Φ, contrairement à ce qu'on croit …une fonction de phonation qui se trouve être substitutive du mâle] (Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で[jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. ](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014) |
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パロール享楽、つまり女たちは男以上に喋りまくるということであり、これは誰もがよく知っていることだ。 |
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パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である[La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.](Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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ようは女たちは人間を悩ます癌ということだ。 |
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本来的には女の本質は身体だ、安吾が次のように言っているように。 |
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女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) |
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でも安吾はこの前年、次のようにも言っている。 |
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素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。 (坂口安吾「女体」1946年) |
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《女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた》とあるが、この後者の「肉体なき思考」が、事実上、冒頭のラカンの《女たちは男以上に男である》の意味だね。つまりこのせいで、《つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐる》だよ。 |
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なんでこんなこと書いてるかというと、蝦蟇口大臣に女性がなったせいだ。 |
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彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ [Hast du auch ein Portemonnaie? Der Waller hat ein Würstchen, ich hab' ein Portemonnaie]」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ[Ja, ich hab' auch ein Portemonnaie]」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢解釈』第6章、1900年) |