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2025年10月22日水曜日

真のフェミニストのためのオメガ論文

 

私は以前には折に触れて引用してきたが、「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」(松田義幸・江藤裕之、2007年、PDF)は、素晴らしい論文だよ。この論のベースは、バッハオーフェン『母権制論』(1861年)、グレーヴス『ギリシア神話』(1955年)、ウォーカー『神話・伝承事典――失われた女神達の復権』(1983年)だがね。


何よりもまずオメガ論文と言えるだろう、《Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである》。いくら古代に遡って哲学やら人類学やらと言っても、このオメガを抑圧している思想はクソだよ。少なくとも真のフェミニストなら是非読むべきじゃないかね。





以下、「古代母権制社会研究の今日的視点」の記述をいくらか掲げておこう。


そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕

後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。

三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf)




女神の「新月→満月→旧月」の循環原理


月女神によって創造された無限に広がる大宇宙、無限に広がる大海原と「母なる大地」、そして、女性だけの能力の出産と育児、「有限の命(ビオス bios)」を母から娘、娘から孫娘へと繋ぐ「無限の命(ゾーエー zoe)」の神秘。「創造の言葉」logos から見離された男性たちはこの万物の創造のプロセスから完全に疎外されていた。「創造→維持→破壊」は、月母神、大地母神、母親だけの特権であった。宇宙原理、自然原理、女性原理の前に、男性たちは成す術が全く無かった。女性たちは、宇宙と大地と女性が、「創造→維持→破壊」の三相一体の母性力に従って連動しており、月女神がこの原理を支配していると信じていた。夜空で仰ぎ見る「新月→満月→旧月」の周期が、なによりのその証拠であった。

このようなものの見方、考え方、感受性の心の習慣(habitus mentalis)は、インドからヨーロッパの地域まで広がっていた。月女神のことを、例えばインドでは Kali Ma、ギリシアでは Eurynome、キプロスでは Aphrodite、ローマでは Lat、Luna、Venus、シリアでは Astarte、Asherah、エジプトでは Isis と呼び崇拝していた。そもそもエジプトは「月の国」のKhemennu として始まり、ローマ帝国の前は、月女神 Lat が創り出した国のLatium であった。ギリシアでも Leda、Lada、Leto、Latona の呼称で知られていた。Aphrodite の月女神の呼称は Lat の綴りを入れたGalatea で「乳を与える女神」であったし、月女神のエジプトの Hathor、シリアの Astarte の添え名でもあった。ケルト人もゴート人も「月女神の乳の国」のGalatia の出で、月女神 Galata を崇拝していた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf


「創造→維持→破壊」の循環の三相一体の「死と再生」原理を信じていた時代、女性は母から娘、娘から孫娘へと自分自身の生命が永遠に続く「無限の生命(ゾーエー zoe)」を実感できた。他方、男性は一度限りの「有限の生命(ビオス bios)」でしかないコンプレックスを抱いていた。そのために、男性は女性になろうとして、擬娩(convade)、女装(transvestism)し、さらに、去勢(castration)という不自然なことをしたのである。Kronos の去勢と Aphrodite の誕生も、またZeus の太腿の話も去勢を意味していた。去勢することによって子を産みたい。その強い願望が男神たちの去勢による出産神話を創ったのである。これは、インド・ヨーロッパ言語文化圏だけでなく、世界中の神話に見ることができる。そして、仕舞には父神が去勢すれば母神の能力がつき、造物主になれるという創世神話に発展したのである。後に、去勢の儀式は子どもにも及び、割礼をし、経血のシンボルの塩でもみ、子をもうける力を授けたのである。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf



ゾーエーとビオスとあるが、これについては、天才神話学者ケレーニイから二文だけ掲げておこう(彼はバッハオーフェンに大きく影響を受けた宗教史家でもある)。

ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。zoë is the thread upon which every individual bios is strung like a bead, and which, in contrast to bios, can be conceived of only as endless. (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)




なお精神病理学者木村敏が実に優れた解釈をしている。

わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。


だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)