おい、北極ヤツメウナギの口だってよ。ビビったよ、そっくりで。
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すべての幼児期理論の共通の特徴は、民俗学的にも証明されているが(特に神話や妖精物語)、女性の性的器官の否認である。そこには経験された出産外傷の抑圧が明瞭に基礎にある。 Der gemeinsame Zug aller infantilen Geburtstheorien, die auch ethnologisch {Mythen und besonders Märchen) reichlich zu belegen sind ist die Verleugnung des weiblichen Sexualorgans und dies verrät deutlich, daß sie auf der Verdrängung des dort erlebten Geburtstraumas beruhen. 出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている。女性の冷感症から男性の心的インポテンツまでである。 Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde, der psychischen Impotenz wie der weiblichen Frigidität in allen ihren Formen, (オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年) |
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性交が中断されたとき引き起こされる性的機能の障害との遭遇は、母の性器の不安(危険なヴァギナデンタータ)に相当する。Störungen der Sexual funktion hinüberleitet, indem der sie auslösende Koitus interruptus der Angst vor dem mütterlichen Genitale entspricht (gefährliche vagina dentata). (オットー・ランク『出産外傷』1924年) |
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ーー《不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand]》(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)、《不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ]》(Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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ラカンの「不安セミネール」で展開されたこと、それはまた、フロイトの『制止、症状、不安』においてまとめられた不安理論、『出産外傷』におけるオットー・ランクの貢献としての不安理論を支持している[que c'est développé dans le Séminaire de l'Angoisse,… prend aussi en charge, …la théorie freudienne de l'angoisse qui intègre dans Inhibition, symptôme, angoisse l'apport d'Otto Rank sur le traumatisme de la naissance. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne- 12/05/2004、摘要) |
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S(Ⱥ) にて私が示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。[S(Ⱥ) je n'en désigne rien d'autre que la jouissance de Lⱥ Femme](Lacan, S20, 13 Mars 1973) |
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あなたを呑み込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997) |
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ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ](Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958) |
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大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ) ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006) |
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どの穴も女陰の裂け目の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識』第7章、1915年) |
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宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。歯の生えたヴァギナ(ヴァギナデンタータ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくるから。 |
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The femme fatale is one of the most mesmerizing of sexual personae. She is not a fiction but an extrapolation of biologic realities in women that remain constant. The North American Indian myth of the toothed vagina (vagina dentata) is a gruesomely direct transcription of female power and male fear. Metaphorically, every vagina has secret teeth, for the male exits as less than when he entered. |
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社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。 |
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Sex as a natural rather than social transaction, therefore, really is a kind of drain of male energy by female fullness. Physical and spiritual castration is the danger every man runs in intercourse with a woman. Love is the spell by which he puts his sexual fear to sleep. |
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女の潜在的吸血鬼性は社会的逸脱ではなく、彼女の母なる機能の発展にある。 自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母への回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。 |
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Woman's latent vampirism is not a social aberration but a development of her maternal function, for which nature has equipped her with tiresome thoroughness. For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature. |
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(カーミル・パーリア『性のペルソナ』 Camille Paglia, Sexual Personae, 1990年) |
ーー《母として[quoad matrem]、すなわち《女なるもの》は、性関係において、母としてのみ機能する[quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »]》(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)、
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| メリ・ローラン(マネ、マラルメの愛人) |
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どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年) |
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何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータの神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE , 1998) |
最近のAVはヤツメウナギの口女がほとんどだから、それでいっそう若い男は逃げ出したり結婚しなくなっているんじゃないかね。よくないよ、実際あの手のAVは。せめてこうじゃないと。
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私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。 私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。(坂口安吾『三十歳』1948年) |
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どんなに身をまかせたいと焦っても口実がいります。ところで男の暴力に負けたように見える口実ほど女に都合のいいものはありません。じつを言うと私などいちばんありがたいのは神速にしてしかも一糸乱れぬ猛烈かつ巧妙な攻撃です。こちらが付込むべきところを、逆に尻ぬぐいせねばならないような間の悪い思いをけっしてさせぬ攻撃⋯⋯女の喜ぶ二つの欲望、防いだ誇りと敗れた喜びを巧みに満足させてくれる攻撃です。(ラクロ『危険な関係』1782年) |
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佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。〔・・・〕 にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。 やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』1986年) |
やっぱり女は古典的なヒステリーの女じゃないとな。穴の享楽なんかされたら男はたまったもんじゃないよ
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女は欠如をエンジョイする。去勢を楽しむ。これは種々の形式をとる。わたしたちは哀れな女たちを知っている。男の幻想に囚われた女たちを。Elle peut jouir du manque, faire de la castration ses délices. Cela peut prendre des formes très diverses. On connaissait la femme pauvre, chère au fantasme masculin 〔・・・〕 そこにヒステリーの享楽がある。欠如を無に移行させ、誘惑を楽しむヴァージョンのなかで魅惑するものとして無を使う。Là est la jouissance de l'hystérique. Quand le manque est transformé en rien, il peut servir à charmer dans une version joyeuse de la séduction. しかし愛のよりラディカルなヴァージョンがある。そこでは女性自らを身体と魂に奉納するよう導く。犠牲にさえする。Mais une version plus radicale de l'amour peut aussi conduire une femme à se vouer corps et âme, jusqu'au sacrifice,〔・・・〕 |
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ヒステリーとは異なりこの女性のポジションは裂目を埋めない。裂目を可視的なままにする、自らの存在を為すために。ミレール曰く、《突き詰めれば、真の女は常にメドゥーサ である》。女性の裂目の享楽[la jouissance de la béance féminine]、穴の享楽[la jouissance du trou]、無の享楽、空無の享楽、それは根源的放棄へと導きうる。 Cette position féminine, à la différence de celle de l'hystérique,[…] c'est ne pas combler le trou, laisser la béance apparente, en faire son être. « Allons jusqu'au bout – dit Jacques-Alain Miller – Une vraie femme, c'est toujours Médée »(Miller J.-A. « Médée à mi-dire », 1993) Eprouver la jouissance de la béance féminine, la jouissance du trou, du rien, du vide, peut conduire à un renoncement radical.〔・・・〕 文学や映画は、女性性における裂目を行使するためにとことんまで行く女たちのあらゆる事例を提供している。現代の臨床に関しても、この去勢の享楽、無の享楽、空無の享楽を証明する事例に不足はない。わたしたちはもはや美のヴェールの背後の去勢を無理して隠さない。La littérature et le cinéma nous offrent toutes sortes d'exemples de femmes qui vont jusqu'au bout pour faire valoir cette béance de la féminité. Quant à la clinique contemporaine, elle ne manque pas de cas qui témoignent de cette jouissance du moins, du rien, du vide.[…] On ne cache plus forcément son moins derrière le voile du beau. (Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019) |
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最近の女性は勘違いしてんじゃないかね、彼女らも最近のAVをまったく見ないわけじゃないだろうし見ていけないもんでもないが、男女の性関係ってのはあんなもんじゃまったくないよ。ジャック=アラン・ミレールの言うように、真の女は常にメドゥーサ であるにしろ、隠しておくもんだよ。ラブレーだってそう言ってるらしいがね、 |
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メドゥーサの首が女性器を代替する時、いやむしろ女性器の淫欲効果から戦慄効果を分離させるとき、場合によって女性器の剥き出しは厄除け行為として知られていることを想起できる。 恐怖を引き起こすものは、敵を追い払うのと同じ効果があろう。ラブレーにおいても、女にヴァギナを見せられて悪魔は退散している。 |
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Wenn das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, vielmehr dessen grauenerregende Wirkung von seiner lusterregenden isoliert, so kann man sich erinnern, dass das Zeigen der Genitalien auch sonst als apotropäische Handlung bekannt ist. Was einem selbst Grauen erregt, wird auch auf den abzuwehrenden Feind dieselbe Wirkung äussern. Noch bei Rabelais ergreift der Teufel die Flucht, nachdem ihm das Weib ihre Vulva gezeigt hat. |
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(フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922]) |
ーー《メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.]》(ラカン、S4, 27 Février 1957)、《男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。…もちろん女がパッションの過剰に囚われたときだがね。[un monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie. ……Ceci bien entendu reste à la rubrique des excès passionnels]》(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)



