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2025年10月17日金曜日

こういうのを貼り付けて何を言おうとするわけでもない


ははあ、





はははあ、




こういうのを貼り付けて何を言おうとするわけでもない。


金剛石も磨かずば

珠の光は添はざらん

人も学びて後にこそ

まことの徳は現るれ


これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。


そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に

「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」

と訊ねた。すると父は、

「なによ馬鹿を言うだ」

と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。


こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年)



で、日本の「師の玉あ食う」はどうなるんだろ?