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子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。 でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』2009) |
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…………… フロイトはゲーテ小論でこう言っている。 |
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かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情を、あの成功の確信を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある[Wenn man der unbestrittene Liebling der Mutter gewesen ist, so behält man fürs Leben jenes Eroberergefühl, jene Zuversicht des Erfolges, welche nicht selten wirklich den Erfolg nach sich zieht.](フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」1917年) |
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どうだろう、すべての成功者がそうだと言うつもりは毛頭ないが、成功者の多くはかつて母の絶対的寵児だったのではないか、という仮定は? |
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で、この絶対的寵児は、フロイト・ラカンの定義上では自己愛者だね。 |
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愛は、本質的に、愛されたいということである[l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. ](Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
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ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme ](Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
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ナルシシズム、つまり自己愛[ »Narzißmus« oder Selbstliebe ](フロイト『自己を語る』1925年) |
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もっともこの自己愛が前回示した現在のDSM5における「自己愛性パーソナリティ障害」(DSM-5の改訂版「DSM-5-TR」では「自己愛性パーソナリティ症」)に相当するか否かは判然としないが、似たところは大いにあるよ。 |
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われわれの分析的観点からは、誇大妄想狂は、この人物のリビドー的対象備給の撤退による自我の拡大であり、原初の初期幼児期の回帰としての二次ナルシシズムである。 Für unsere analytische Auffassung ist der Größenwahn die unmittelbare Folge der Ichvergrößerung durch die Einziehung der libidinösen Objektbesetzungen, ein sekundärer Narzißmus als Wiederkehr des ursprünglichen frühinfantilen. (フロイト『精神分析入門』第2部第26講、1917年) |
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特に、欧米の政治的リーダーはこの誇大妄想的ナルシシストが多い感じがするね、彼らが母の寵児であったか否かはいざ知らず(最近はテキトーモードでね、これももちろん「テキトー」だからな)。 で、上に「二次ナルシシズム」とあるが、これが自己愛であり、他方、一次ナルシシズムが自体性愛(自己身体愛)だ(フロイトにとって究極の自己身体は喪われた母の身体ーー母の乳房や母胎ーーである)。
さて、ここでは自己愛(二次ナルシシズム)に当面焦点を絞るが、フロイトは上で原初の初期幼児期の回帰と言っているが、実際はーー少なくともラカニアンの読み方ではーー、次のような内実がある。 |
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成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定されているような幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への同一化である。〔・・・〕 もっとはっきり言うなら、成人の神経症の全能感は、幼児期における《ファリックマザーとの同一化 》(ラカン、S4)に回帰することである。その意味は、欠如なき母ーー最初期、子どもによってそう感受されるーーあの母との同一化である。 |
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The so-called feelings of omnipotence of the adult neurotic do not go back to a supposed infantile omnipotence, but to an infantile identification with the mother's omnipotence. (…) To state it more clearly: the adult neurotic's feelings of omnipotence go back to an infantile identification with a phallic mother (Lacan, 1994 [1956-57]). Meaning: the mother without a lack, as she is perceived by the child. |
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(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, New studies of old villains, 2009) |
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バーハウは、最近、遡及的に脚光を浴びているラカンのセミネールⅣから引用しているので、ここではラカン自身の発言をいくつか引用しておこう。 |
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全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
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ファルスの欠如を隠蔽するという限りでのファリックマザーとの同一化がある[…s'identifie à la mère phallique en tant que d'autre part elle voile ce manque de phallus. ](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
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母子関係の基盤はファリックマザーへの固着された二者関係である[… fondamentale cette relation de l'enfant à la mère, …relation duelle comme fixée à la mère phallique,] (Lacan, S4, 03 Avril 1957) |
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フロイトのレオナルド・ダ・ヴィンチに関するエッセイは何を示しているのか? 彼は1910年5月に、ファリックマザーの機能、つまりファリックウーマンの重要性を、その主体である女性にとってではなく、この主体に依存する子供にとっての重要性について、非常に正確に紹介している。qu'est-ce qu'introduit l'essai de FREUD sur Léonard DE VINCI ? Il introduit, très précisément en Mai 1910, l'importance qu'a la fonction mère phallique, femme phallique, non pas pour celle qui en est le sujet, mais pour l'enfant qui dépend de ce sujet. (Lacan, S4, 03 Juillet 1957) |
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・・・というわけだが、ま、いずれにせよ、ナルシシズムはーー原ナルシシズム(一次ナルシシズム)であれ、二次ナルシシズムであれーー、マザコンだろうよ。 |
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大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏ーー「古井由吉氏を囲んで 座談会 古井由吉文学の神髄」) |
で、マザコンって悪いのかね、
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子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。〔・・・〕 疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない。乳房が身体から分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden, wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.] |
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最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快と不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ] この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
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マザコンは母の後継者である女への隷属あるいはマゾヒストになるからな、 |
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
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男性はしばしば女性にたいしてマゾヒズム的態度、隷属さえ示す[daß solche Männer häufig ein masochistisches Verhalten gegen das Weib, geradezu eine Hörigkeit zur Schau tragen](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年) |
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ここでフロイトは男性を事例に掲げているが、女性も母へのエロス的固着があるのは同様だ、《少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この母拘束はこよなく重要であり永続的な固着[Fixierungen]を置き残す。Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt. 》(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)。 フロイトが拘束[bindung]用語を使うときは、おおむね固着を意味する、《対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ]》(フロイト「欲動とその運命』1915年)[より詳しくは参照]。 そして現代主流ラカン派では、《分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)。 さらに固着はマゾヒズムに関わる。ーー《無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]》(フロイト『性理論三篇』第一篇, 1905年) ラカンはマゾヒズムと原ナルシシズムつまり自体性愛を等置しているが[参照]、「二次ナルシシズムとしての自己愛」はこの「原ナルシシズムとしてのマゾヒズム(自体性愛)」の防衛だよ。マゾヒズムは死の欲動だからな[参照]、やっぱり防衛したほうがいいんじゃないかね、たとえ誇大妄想に耽っても。
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厄介なのは防衛したって回帰があるんだな、防衛=抑圧であり、すなわち抑圧されたものの回帰が。
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| (抑圧は誤訳) |

