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2025年10月28日火曜日

雨の朝きみはあの頃の男たちを思い出している


俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)






僕は、詩がなくても生きていけるんですよ。でも音楽がなかったら生きていけない人間なんです。それは子供の頃からだいたいそうで。とくに思春期以後、自分の感性がちょっと拓けてきたときに、まず感動したのはクラシックの音楽ですね。で、そのずっと後になって、詩の魅力っていうのに気づいたんじゃないかな。(谷川俊太郎『声が世界を抱きしめます』2018年)


音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。(高橋悠治「家具になった音楽」讀賣新聞 夕刊 1982年10月21日のグールド追悼全文







◼️作曲家の生活 高橋悠治
ーー音楽の反方法論序説 18

雨の朝きみは武満徹を思い出している。

かれが亡くなって一月たった。

きみはかれのピアニストだった。

作曲の助手だったこともある。そこできみは

細かく書き込まれたスケッチから

映画のためのオーケストラ・スコアを作り、

楽器について、映画と音楽の関係についてまなんだ。

ながいあいだのように思っていたが、それは

ただ 3年ほどの、しかし密度のある時間だった。

それからかれの友人となり、つぎに批判者となった。

そのことでかれはきずついた。

だが、きみとちがって、かれは

きみのことを悪くいうことはなかった。

きみは別な道を行った。

しばらく会うこともなかった。

何年もたって、ある町でかれの楽譜が売られていた。

崇拝者の列が、かれのサインを待っていた。

きみは、昔きみのために書かれた曲の楽譜を買って

列に加わった。

冗談のつもりだったが、あれは冗談だったのか。

そしてまた友人となり、十年がすぎた。

しばらくかれの姿を見なかった。

病気といううわさだった。

ひとに会わないようにしているのだと思って

たずねることもしなかったが、

きみは何にこだわっていたのか。

そのあいだに季節はめぐり、きみは

友人を二度うしなうことになった。

記憶はもろいものだ。

かれとはじめて話したのは嵐の夜だった。

台風で電車が止まり、古い旅館に泊まった。

やかましい雨の音のなかで、何を話したのか。

かれの娘が生まれた夜も、きみはかれの家に泊まっていた。

知らせを待ちながら、何を話したのか。

ことばは浮かんでこない。

ありありと感じられるのは、かれの声の響だけだ。

かれを思い出すとき、かれの音楽は響いてこない。

かれは作曲家だった。

それだけではない。かれは作曲家であろうとしていた。

かれはたしかに音楽を愛していた。

そのために生きていたと言えるほどだった。

若い時あこがれた音楽、

かれのグループがコンサートでとりあげたシェーンベルクや

メシアン、ラジオから流れてきたあの頃のアメリカの唄、

それらがかれの内部で響きやめたことがあっただろうか。

そのひたむきな愛は、かれをどこに連れていったのか。

心の内側で響きかわす鐘の響、はるかな歌。

それはだれの音楽だろう。

それがかれの音楽となって現われた時から、

かれはその音楽の内側にとじこもらなかっただろうか。

音楽を家とするのはしあわせか。

音楽はかれをひろい世界に連れ出した。

かれはたくさんの音楽家たちを友人にもった。

指揮者、ソリスト、オーケストラ、音楽出版社。

オーケストラをめぐる世界の音楽市場。

そこでは、音楽は交換される手形のようなもの、

かれの署名、かれの身分証明書ではなくて何だろう。

オーケストラは世俗権力とむすびついている。

東アジアでは二千五百年も前から宮廷の音楽だった。

それがヨーロッパに現われたのは、そんな昔のことではない。

いま国家があるからオーケストラがある。

国家が壊れれば、オーケストラも壊れる。

国境がなくなれば、オーケストラもいらない。

オーケストラ音楽を作曲するひとは、音楽を

じぶんのものにするだけではたりない。

国家に属さず、国家を背負わないで作品がうけいれられると

思うなら、やってみるがよい。

音は生まれ、音は消え去る。同じ音は二度と生まれない。

一つの音があり、別な音がある、それだけだ。

一つの音が次の音に導くこともない。

一つの音は生まれたその場所で消える。

次の音は次の場所で生まれ、そこで消える。

それらを連続したものと感じているのは、

創造の衝動、心の軌跡、

一つの音を創り、それを完結することなく放棄して、

次の音に向かう欲望のメカニズムではないだろうか。

だが、現実には一つの音さえ創ることはできない。

手があり、楽器があり、意図があり、うごきがある。

それらの組み合わせが瞬間ごとに明滅する。

そこにはだれの姿も見えない。

一つの運動がそれ自体をうごかしていく。

音楽の創造とは夢にすぎない。幻覚にすぎない。

音楽を創るのは、穴のあいた器で水を汲むようなものだ。

こぼれる砂にかたちをあたえ、自分のものにしようとしても、

にぎりしめる手にのこるのは、空白の時間でなくて何だろう。

つかまえることのできない音を追って、一つの作品を創り、

最後のページを書き終えても、音楽は完成されることはない。

創られた音楽はかれのものにはならない。

音楽はかれのなかにあるとも言えず、

音楽のなかにかれがいるとも言えない。

かれは音楽ではない。音楽はかれではない。

音楽がどこに存在するか言うことはできるだろうか。

そして、かれはどこにいるのか。

ほかの人びとにとっては、かれの音楽はかれのものであり、

かれの作品のなかにはかれがいる。

かれのなかには、まだ書かれていない音楽がある。

かれ自身もほとんどそれを信じている。

信じていなければ、作曲家の生活はない。

だが、創造の衝動はだまされない。

ほかの人びとがこの響にかれの名をきくのなら、

かれはそこに何をきけばよいのだろう。

内部に響く歌にかれの名をあたえようとしても、

作品によってそれに近づくことはできない。

たくみに張り巡らした網は、音楽をとらえない。

かれのものとしてのこるのは、創造という行為だけだ。

創造行為とは、音楽によって音楽から遠ざかることではない

と、どうして言えないだろうか。

みたされない思いが次の作品を創らせる。

じぶんの紡ぐ糸に包み込まれるクモのような

このとらわれを、ほかの人びとは成熟と呼ぶ。

かれ自身もほとんどそれを信じるだろう。

これが音楽への愛だ。これが作曲家の生活だ。

生活はやがて壊れていく。顔も声もうしなわれる。

思い出も消え、名も消える。

作品も永遠ではありえない。

だが、だれもいなくなり、なにもなくなっても、

創造の夢だけは、種子のように漂いながら、

それ自身を夢見つづけるだろう。

この夢がやすらぎを知ることはない。







おれがきみと自殺とを意識的に結んで考え始めたのは、お互いに三十代になってのことだ。それもとくにおれはおれで仕事を始めて、年中、小説を書くか本を読むかしているきみと遊ぶことが間遠になった頃、直接それを突きつけてくる人がいたんだ。映画関係の人間が集まる、といっても実際に映画の制作に関係して生産的な人間はというと、数えるほどのね、そういうバーに行くことがあると、これは確実に映画音楽を作曲している人として、篁さんに会うことがあった。あの人はバーの入口からまっすぐおれのところに進んで来てさ。黒い鳥がさっと舞い下りるように脇に坐って、きみのことを質ねるんだ。


近頃、古義人さんに会いましたか? あの人は、大丈夫でしょうか? とさ。とくに声も低くしないで…


それは古義人がちゃんと仕事をやっているかとか、アカリ君がどうか、というたぐいの話じゃないよ。じつに露骨にね、きみが自殺しないだろうか、ということなのさ。会うたびにただそのことだけ聞かれるんだから、誤解のしようもない。(大江健三郎『取り替え子』p 91)


篁さんは小柄な身体でなくても大きすぎる頭の持主だが、勢いも均斉もあきらかな立居振舞いの人でもあった。それがピンドットのワイシャツ生地のパジャマに、放射線治療で髪の抜け落ちた頭は毛糸の帽子にくるんで、古義人を動きのない深い眼で把えていた、古義人は、自分から眼を伏せた。(大江健三郎『取り替え子』p183)







武満徹に


飲んでるんだろうね今夜もどこかで

氷がグラスにあたる音が聞える

きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ

ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに

それをまぎらわす方法は別々だな

きみは女房をなぐるかい?


ーー谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収、1975年



「おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で

ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ


ーー谷川俊太郎「北軽井沢日録」(『世間シラズ』所収、1995年)






「社会的な存在形態としては、映画監督は映画を撮る職業だから映画を撮っているにすぎない。そしてそのことによって、すべての職業が屈辱である」と、大島渚氏は著書に書いていますが、作曲家である私もその苦い意識から遁れようはないのです。


作曲家という表現行為が否応なく職業化して制度に組み込まれていく。〔・・・〕

作曲家は、すくなくとも私という作曲家の現状は、お便りにあったような<他者の拘束から自由に、自分の内なる理法と感興にだけ従って飛翔し、音という質量も外延もない世界を築いてゆく>ようなものではありません。寧ろその後で指摘されているように、<作られたものを、演奏家や聴衆という「他者」に強制する次の瞬間に、作曲家を待ち構えているかもしれない戦慄の深さ>に怯える存在です。

私はけっして音と触れることの、また、音楽することの喜びを失ったわけではありません。それを知っているから、却って音楽を作る専門家であることを疑わないではいられないのです。


音楽を創る者と、聴かされる大衆という図式は考えなおされなければならないでしょう。しかもそれはきわめて積極的にされなければならない。これまで、疑うことなく在りつづけたこの図式は、別の新たな関係の前に破壊されるでしょう。そうでなければ文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かうしかない。(武満徹-川田順造往復書簡『音・ことば・人間』1980年)