もはやーー、1年ほど前にも掲げたことがあるがーー加藤周一の「なしくずし論」を再掲しておくほかない状況に陥りつつあるように見えるな、
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◾️加藤周一「「なしくずし」の過程について」朝日ジャーナル 1980年7月4日 |
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「平和を欲すれば、いくさに備えよ」という諺が西洋にある。その諺は、いくさの備えそのものが、いくさを生みだすという他面を言わない。しかし日本の経験は、むしろ後者の面の例証のようにみえる。日清戦争以来の軍国日本は、いくさに備えること厚く、一〇年毎にいくさを繰返した。敗戦後の日本は、いくさに備えること薄く、今日まで三五年間も平和をつづけている。その三五年間に、軍国アメリカは、大軍を動かして、朝鮮半島に戦い、越南征伐に乗り出し、今またペルシャ湾頭に軍事的冒険の気配をみせる。 いくさに備えてアメリカに劣らぬソ連も、先には戦車隊をブダペストとプラーハへ送り、今はアフガニスタンに大軍を進めている。平和を欲すれば、いくさに備えるよりは、いくさの備えがいくさを生みだす過程に注意した方がよさそうである。 |
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いくさはどういう具合にはじまるか。常に必ずしも宣戦布告をもって、ある日突然はじまるとはかぎらない。そうではなくて、まず国内に、「なしくずし」の軍国主義化がおこり、いわゆる「軍産コムプレックス」が次第に抜きさしならぬものとなる。対外的には、特務機関が他国の指導者を倒して傀儡(またはそれに近い)政権を作る(たとえば張学良を爆殺して満洲国、バオダイを追出してアメリカ製のサイゴン政府、モサデグを除いてシャーの政権) 。同時に、その国へ向けて、軍事顧問を送り、武器援助を行い、いくらか病院や学校も建て、主とし大がかりな投資をする。しかし傀儡政権に対しては、晩かれ早かれ大衆が反抗し、その反抗は、しばしば武装「ゲリラ」の形をとって(「便衣隊」から「ヴィエトコン」まで)、次第に組織化される。その軍事的弾圧は傀儡政権の手に負えない。従って直接の軍事的介入がはじまる。周知のように、軍事的介入の規模は、少しずつ拡大し、気がついたときには、「手おくれ」となる。 いくさは酣で、残された選択は、絶望的な戦線の拡大 (東条内閣)か、「名誉ある撤退」(ニクソン政権)か、どちらかであろう。 |
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軍国主義へ向っての小さな事実の積み重ねは、かくして、次第に選択の幅をせばめ、いつか「手おくれ」の時期に到るのが、「なしくずし」のいくさの特徴である。そういうことは、政策決定の水準でおこるばかりでなく、またいわゆる「世論」の面でもおこる。 特定の政策は、特定の方向への世論操作を伴い、操作された世論は、次の政策決定の条件の一つとして働く。世論操作の有力な道具は、いうまでもなく、大衆報道機関であるから、「なしくずし」から「手おくれ」へ向う過程は、大衆報道機関の活動そのものにもあらわれざるをえない。 しかし大衆報道機関、たとえば新聞は、必ずしも意図的に、世論を操作しようとするのではない。また必ずしも権力の圧力に屈して、みずからの意図に反して、そうするのでもない。むしろ主観的には、報道機関本来の任務を忠実に果すことによって、客観的には「手おくれ」になるまで「なしくずし」の過程に貢献するのである。報道機関本来の任務とは、速報性であり、報道内容の正確であり、多数の読者の好みに投じることである。そのために、能率のよい組織と有能記者を必要とすることはいうまでもない。たとえば一九三〇年代に日本の新聞いくさの報道は、敏速で、およそのところ「戦果」を正確に伝え、「皇軍」を讃美することで読者の好みに従っていた。たしかに南京大虐殺を報道はしなかったが、新聞は無能だったから日本の軍国主義化を促進したのではなく、有能だったからそうしたのである。 |
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しかもそれだけではない。 一般に大衆報道機関には、殊に日本国のそれには、二つの原則的な立場がある。その一つは、中立主義である。すなわち対立する意見の真中を探る。対立する意見の一方が、なしくずしに右へ寄れば、真中もなしくずしに右へ寄るから、中立主義はどこまでも右へ寄ることを妨げ得る立場ではない。もう一つは、現実主義である。 既成事実を与件としてうけとり、その上で選択肢を考える。まさに政策決定の水準での「なしくずし」過程と同じように、あらたな既成事実が加わる毎に、意見の選択の幅は狭くなるだろう。 「手おくれ」をこの立場から防ぐことはできない。かくして大衆報道機関は、自己の立場を裏切ることによってではなく、 まさ自己の立場に忠実であることによって「なしくずし」の過程に参加し、しかも「手おくれ」になるまで自信にみちてその過程に参加するのである。 |
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「なしくずし」の軍国主義化に抵抗し、「手おくれ」を未然に防ぐには、中立主義では足りず、現実主義では足りず、いわんや新聞記者の職業的能率主義では足りない。そういうことではなくて、動かぬ原則が必要である。 軍国主義化に抵抗する原則は、 反軍国主義であり、「手おくれ」のいくさを防ぐ原則は、先の見通を伴う平和主義である。 「なしくずし」の過程において決定的なのは、反対する側での、そういう原則の一貫性の他にはない。 すなわち状況に応じて中立主義を棄てる用意であり、既成事実を動かすべからざる与件としてではなく、除去すべき諸悪の根源とみなし、大勢順応型現実主義と戦う用意である。(以下略) |
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◾️加藤周一「遠くて近きもの・地獄ーー破局はいつも突然に 実感できぬ戦争の歩み」 『朝日新聞』1982/8/20『山中人閒話』所収ーー改題:「『なしくずし』という事」 |
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私は初冬の話を真夏にする。なぜなら夏に終わったことは、冬に始まったからである。 一九四一年一二月八日に、太平洋戦争は、どういう風に始まったか。三〇年代の日本のいくさは、宣戦布告を伴わない 「なしくずし」の過程であった。そのとき政府は、「不拡大方針」を掲げながら大陸でのいくさを拡大し、「蒋介石を相手にせず」に、蒋介石を征伐しようとしていた。その頃「皇軍」とよばれていた日本帝国の自衛のための戦力は、「東洋平和」のために、「便衣隊」すなわち抵抗する中国人と戦っていた。 |
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しかし南京は東京から遠かった。市民は「真相を知らされていなかった」し、また強いて知りたいと思っていたわけでもなさそうである。軍隊に召されない限り、 いくさは新聞紙上の出来事であり、毎日「赫々たる戦果」があって、日常の生活とは係わりがなかった。食糧その他の必需品は、まだ不足していなかったし、生活の「リズム」は常に変わらず、身の周りでは、冠婚葬祭を含め万事が何事もないかのよう進行していた。 たしかに政府は、右の「テロリズム」に寛大で、左からの批判に厳しかった。周知のように陸軍はそれを利用し、権力機構内部での影響力を次第に強めていたにちがいない。既成事実の積み重ね、政策の選択の幅の縮小、各段階での妥協の連続、ますます狂信的になってゆく軍国主義・・・しかしそれもまた「なしくずし」の過程であり、その過程のどこに決定的な段階、すなわち方向転換のための最後の機会があったかを、見きわめることは、誰にとっても困難であった。 一社会が「なしくずし」に破局に近づいてゆくとき、破局はいつでも遠くみえる。〔・・・〕 |
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しかし太平洋戦争は、ある朝、突然、私たちの寝こみを襲った、もはやとり返しのつかない出来事として、おそらくは私自身を含めて数百万人の日本人の死を意味するほかはないだろう事業の始まりとして。それがどれほど私から遠くみえ、どれほどあり得ないことのように感じられていたとしても、そういう感じは、 いくさが起こるか起こらぬかとは、何の関係もない。 私は今そのことを思い出し、核兵器の時代に東アジアを舞台にした戦争を考える。 もしそういう戦争が起これば、今度は数百万人でなく、数千万人の日本人が死ぬだろう。そういう事は、太平洋戦争よりも、もっと想像し難い。しかし想像し難いことは起こり得ないことではない。 |
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昔清少納言は、「遠くて近きもの・極楽」といった。もし清女をして今日に在らしめたならば、「遠くて近きもの・地獄」といって、 「なしくずし」の軍国化の過程に警告していたかもしれない。今日の地獄とは、いくさである。 昨日は遠くて今日近きものがある。たとえば、文部省が日本の「中国侵略」という代わりに「中国進出」といいたがること。首相の靖国神社公式参拝、または国家神道の復活。 憲法第九条の空文化、または巨大な軍事予算。非核三原則の「持ちこまず」が、あらゆる証言にも拘らず、そのまま静かに見逃されること。 また今日は遠くて、明日近きものもあるだろう。たとえば「自衛のための」 核武装。「国際的責任のための」海外派兵。「愛国心のための」徴兵制度。「平和と自由のための」局地戦争、または両超大国間の軍事的紛争へのまきこまれ。 |
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「遠くて近きもの」を判じるために、私は私の実感や、想像力や、生活に即した感情を、一切信用しない。ただ新聞雑誌の記事を通じて、私の会ったこともない人々が、見たこともない場所で、何をしているかということについての、いくらかの情報を得、その情報の検討から私にもっとも確からしいと思われ結論を抽きだす。 その結論の多くは、こういう事がおこるだろう、というほど強いものではなく、こういう事がおこり得る、という程度の弱いものである。 すなわち物質的に豊かな日本社会、多くの商品と多くの広告と多くの消費、夏休みに自家用車で遠出する家族、海と浜辺を見に飛行機でグァム島まで出かける若者たち、三日に一度位創刊される雑誌、三日に一度位開店する料理屋、私の身の周りの酒や煙草や、パレストゥリーナからブーレーズまでの音楽、殷周銅器から浮世絵までの美術、フェミニスト、平和主義、漠然と自由主義的な考えの男女、その他親切な多くの人々、ーーそういうものすべて消えてなくなることは今日想像し難いけれども、今日の過程が方向を変えないかぎり、他日大いにあり得ると思う。 |
で、なんでこんなことが起こるんだろうか。やはりーー仮に昔ほどではないとしてもーー、勤勉と工夫で生きるムラ人のせいなんだろうか。
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勤勉と工夫に生きる人は、矛盾の解決と大問題の処理が苦手なのだ。そもそも大問題が見えにくい。そして、勤勉と工夫で成功すればするほど、勤勉と工夫で解決できる問題は解消して、できない問題だけが残る。(中井久夫『「昭和」を送る』初出「文化会議」 1989年) |
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農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
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執着気質的職業倫理〔・・・〕この倫理、二宮に従えば「こまごまと世話をやいてこそ人道は立つもの」であるという認識に立つ倫理は、その裏面として、「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するするものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』第2章「執着気質の歴史的背景」1982年) |
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| (分裂病親和者と執着気質者) |
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日本社会には、そのあらゆる水準に於いて、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係に於いて定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。 日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕 |
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社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。 これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
《「今=ここに生きる」の精神》とあるが、この「今=ここ文化」についての詳細は➤「日本社会・文化の基本的特徴」
