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Clifford Brown & Max Roach Quintet - George's Dilemma |
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Clifford Brown & Max Roach - 1955 - Study in Brown - 04 Lands End |
オレはちょっと休憩するよ、芸術的な遠方からね。
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われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない! |
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Wir müssen zeitweilig von uns ausruhen, dadurch, daß wir auf uns hin und hinab sehen und, aus einer künstlerischen Ferne her, über uns lachen oder über uns weinen: wir müssen den Helden und ebenso den Narren entdecken, der in unsrer Leidenschaft der Erkenntnis steckt, wir müssen unsrer Torheit ab und zu froh werden, um unsrer Weisheit froh bleiben zu können! |
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(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年) |
言葉と眼差しによる拷問にはいくらか疲れてきたからな、
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人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。 |
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nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung |
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(ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年) |
ツイッター賤民ーーいやシツレイ、ツイッター知識人のみなさんもたまには休息したほうがいいぜ、いくら権力者が最下級の者なのが赤裸々になったとしても。
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およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽となり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。 権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ!」とーー。〔・・・〕 ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気! |
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Es giebt kein härteres Unglück in allem Menschen-Schicksale, als wenn die Mächtigen der Erde nicht auch die ersten Menschen sind. Da wird Alles falsch und schief und ungeheuer Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -(…) allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem –: pfui, unter dem Gesindel leben, – pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel! |
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(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年) |
おい、ワカルカ? 内臓が臭うんだよ
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最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...] わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている[Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt.] |
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そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのだろうか」第8節、1888年) |
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ツイッターなんかで臭い息吐いておらずにデモやるんだよ、健康のために、な。 |
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デモやってると、警官が出てきて怒鳴りまくるやろ。「何ぬかすか、アホ!」ってこっちも言ってやる。そうすると恐怖も共有するし感動も共有する。精神が躍動するでしょう。しかも歩いとるんだから、いちばん健康にいいというのが私の説なんです(笑)。(『小田実の世直し大学』2001年) |
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今のところの「高市やめろデモ」はいくらなんでも参加者が少な過ぎるぜ。 今こそこうする時だろ? |
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私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。 Ce qui m’étonne, c’est le fait que dans notre société, l’art est devenu quelque chose qui n’est en rapport qu’avec les objets. Et non pas avec les individus ou avec la vie. Et aussi que l’art est un domaine spécialisé, fait par des experts qui sont des artistes. Mais la vie de tout individu ne pourrait-elle pas être une œuvre d’art ?(ミシェル・フーコー, propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours, 1983年) |
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フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の出来事、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです。 Foucault lui-même, on ne le saisissait pas exactement comme une personne. Même dans des occasions insignifiantes, quand il entrait dans une pièce, c’était plutôt comme un changement d’atmosphère, une sorte d’événement, un champ électrique ou magnétique, ce que voudrez. Cela n’excluait pas du tout la douceur ou le bien être, mais ce n’était pas de l’ordre de la personne. (ドゥルーズ『記号と事件』Gilles Deleuze Pourparlers 1972 - 1990) |


