◼️ルサンチマン[Ressentiment]=反動[Reaktion]=奴隷の道徳[Sklaven-Moral] |
道徳における奴隷一揆は、《ルサンチマン》そのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。このルサンチマンというのは、本来的に《レアクション=反動》、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩のルサンチマンである。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷の道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷の道徳の創造的行為なのだ。 評価眼のこの逆倒ーー自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的な方向――これこそはまさしくルサンチマンの本性である。奴隷の道徳が成立するためには、常にまず一つの対境、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、それは一般に行動を起こすための外的刺戟を必要とする。 奴隷の道徳の行動は根本的に反動である。 |
Der Sklavenaufstand in der Moral beginnt damit, dass das R e s s e n t i m e n t selbst schöpferisch wird und Werthe gebiert: das Ressentiment solcher Wesen, denen die eigentliche Reaktion, die der That versagt ist, die sich nur durch eine imaginäre Rache schadlos halten. Während alle vornehme Moral aus einem triumphirenden Ja-sagen zu sich selber herauswächst, sagt die Sklaven-Moral von vornherein Nein zu einem „Ausserhalb“, zu einem „Anders“, zu einem „Nicht-selbst“: und d i e s Nein ist ihre schöpferische That. Diese Umkehrung des werthesetzenden Blicks ― diese n o t h w e n d i g e Richtung nach Aussen statt zurück auf sich selber ― gehört eben zum Ressentiment: die Sklaven-Moral bedarf, um )zu entstehn, immer zuerst einer Gegen- und Aussenwelt, sie bedarf, physiologisch gesprochen, äusserer Reize, um überhaupt zu agiren, ― ihre Aktion ist von Grund aus Reaktion. |
〔・・・〕 |
ルサンチマンをもった人間の考想する「敵」を考えてみるがよい。──そしてここにこそ彼の行為があり、彼の創造があるのだ。彼はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、更にもう一つ「善人」を案出する──これが自分自身なのだ!・・・・ |
wie ihn der Mensch des Ressentiment concipirt ― und hier gerade ist seine That, seine Schöpfung: er hat „den bösen Feind“ concipirt, „ d e n B ö s e n “ , und zwar als Grundbegriff, von dem aus er sich als Nachbild und Gegenstück nun auch noch einen „Guten“ ausdenkt ― sich selbst!… |
(ニーチェ『道徳の系譜』第一論文、第10節、1887年) |
◼️奴隷の道徳 |
奴隷の道徳。もしも迫害された者が、抑圧された者が、苦悩する者が、自由でない者が、自信を持てない者が、疲れ切った者が、道徳の教えを説くと考えてみよう。こうした人々の道徳的価値評価にはどのようなものが共通しているのだろうか?おそらく人間のすべての状況について悲観的な猜疑が漏らされるだろうし、人間が断罪され、人間がおかれている状況が断罪されるだろう。奴隷のまなざしは、力強いものたちの徳を妬み深く眺めるだろう。奴隷は懐疑家であり、不信の念に駆られた者である。力強い者たちが敬うすべての『善きもの』には、敏感な不信の念を示すに違いない。――そこにある幸福は、本物ではないのだと自分に言い聞かせるのだ。 |
der S k l a v e n -M o r a l . Gesetzt, dass die Vergewaltigten, Gedrückten, Leidenden, Unfreien, Ihrer-selbst-Ungewissen und Müden moralisiren: was wird das Gleichartige ihrer moralischen Werthschätzungen sein? Wahrscheinlich wird ein pessimistischer Argwohn gegen die ganze Lage des Menschen zum Ausdruck kommen, vielleicht eine Verurtheilung des Menschen mitsammt seiner Lage. Der Blick des Sklaven ist abgünstig für die Tugenden des Mächtigen: er hat Skepsis und Misstrauen, er hat F e i n h e i t des Misstrauens gegen alles „Gute“, was dort geehrt wird —, er möchte sich überreden, dass das Glück selbst dort nicht ächt sei. |
(ニーチェ『善悪の彼岸』第260節、1886年) |
抑圧された者、蹂躪された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、「われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えない者、何人も傷つけない者、攻撃しない者、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪魔を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ」――と言って自ら宥めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に余ることは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味はもっていない。ところが、この苦々しい事態、昆虫類(大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類)でさえもっているこの最も低級な怜悧さは、無力のあの贋金造りと自己欺瞞とのお蔭で、諦めて黙って待つという徳の派手な衣裳を着けたのだ。あたかも弱者の弱さそのものがーーすなわち彼の本質が、彼の行為が、彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体がーー 一つの自由意志的な行為、何らかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、一つの事績、一つの功績ででもあるかのように。この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ「主体」に対する信仰を必要とする。主体(通俗的に言えば魂)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を功績と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからだ。 |
Wenn die Unterdrückten, Niedergetretenen, Vergewaltigten aus der rachsüchtigen List der Ohnmacht heraus sich zureden: „lasst uns anders sein als die Bösen, nämlich gut! Und gut ist Jeder, der nicht vergewaltigt, der Niemanden verletzt, der nicht angreift, der nicht vergilt, der die Rache Gott übergiebt, der sich wie wir im Verborgenen hält, der allem Bösen aus dem Wege geht und wenig überhaupt vom Leben verlangt, gleich uns den Geduldigen, Demüthigen, Gerechten“ — so heisst das, kalt und ohne Voreingenommenheit angehört, eigentlich nichts weiter als: „wir Schwachen sind nun einmal schwach; es ist gut, wenn wir nichts thun, w o z u w i r n i c h t s t a r k g e n u g s i n d “ — aber dieser herbe Thatbestand, diese Klugheit niedrigsten Ranges, welche selbst Insekten haben (die sich wohl todt stellen, um nicht „zu viel“ zu thun, bei grosser Gefahr), hat sich Dank jener Falschmünzerei und Selbstverlogenheit der Ohnmacht in den Prunk der entsagenden stillen abwartenden Tugend gekleidet, gleich als ob die Schwäche des Schwachen selbst — das heisst doch sein W e s e n , sein Wirken, seine ganze einzige unvermeidliche, unablösbare Wirklichkeit — eine freiwillige Leistung, etwas Gewolltes, Gewähltes, eine T h a t , ein V e r d i e n s t sei. Diese Art Mensch hat den Glauben an das indifferente wahlfreie „Subjekt“ n ö t h i g aus einem Instinkte der Selbsterhaltung, Selbstbejahung heraus, in dem jede Lüge sich zu heiligen pflegt. Das Subjekt (oder, dass wir populärer reden, die S e e l e ) ist vielleicht deshalb bis jetzt auf Erden der beste Glaubenssatz gewesen, weil er der Überzahl der Sterblichen, den Schwachen und Niedergedrückten jeder Art, jene sublime Selbstbetrügerei ermöglichte, die Schwäche selbst als Freiheit, ihr So- und So-sein als V e r d i e n s t auszulegen |
(ニーチェ 『道徳の系譜』第一論文、第13節、1887年) |
◼️ドゥルーズによる「ルサンチマン」の簡潔な定義 |
ルサンチマン。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする 反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「ルサンチマン」となる。ひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その〈力〉から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」 |
Le ressentiment : c'est ta faute, c'est ta faute... Accusation et récrimination projectives. C'est ta faute si je suis faible et malheureux. La réaction devient quelque chose de senti, « ressentiment », qui s'exerce contre tout ce qui est actif. On fait « honte » à l'action : la vie elle-même est accusée, séparée de sa puissance, séparée de ce qu'elle peut. L'agneau dit : je pourrais faire tout ce que fait l'aigle, j'ai du mérite à m'en empêcher, que l'aigle fasse comme moi... |
(ドゥルーズ『ニーチェ』1965年) |
貴君が奴らの言葉だけを信頼していたら、ルサンチマンをもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか?…… [Würden Sie ahnen, wenn Sie nur ihren Worten trauten, daß sie unter lauter Menschen des Ressentiment sind?...](ニーチェ『道徳の系譜』第一論文14節、1887年) |
猛禽は幾らか憐憫の眼を向けながら、おそらく独り言を言うだろう、《俺たちは奴らを、あの善良な仔羊どもを毛ほども憎んでなんかいない。俺たちは奴らを愛してさえいる、柔らかい仔羊より旨いものはないからな》と。[daß die Raubvogel dazu ein wenig spöttisch blicken werden und vielleicht sich sagen: »wir sind ihnen gar nicht gram, diesen guten Lämmern, wir lieben sie sogar: nichts ist schmackhafter als ein zartes Lamm.« ](ニーチェ『道徳の系譜』第1論文13節、1887年) |
なお『道徳の系譜』(1887年)に先立って書かれた福沢諭吉の『学問のすすめ』(1872年)における「怨望」はニーチェの「ルサンチマン」にきわめて近似している、と私は思う。
◼️福沢諭吉による怨恨 |
およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。貪吝、奢侈、誹謗の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。これを施すべき場所柄と、その強弱の度と、その向かうところの方角とによりて、不徳の名を免るることあり。 |
譬えば銭を好んで飽くことを知らざるを貪吝と言う。されども銭を好むは人の天性なれば、その天性に従いて十分にこれを満足せしめんとするもけっして咎むべきにあらず。ただ理外の銭を得んとしてその場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出で、銭を求むるの方向に迷うて理に反するときは、これを貪吝の不徳と名づくるのみ。ゆえに銭を好む心の働きを見て、直ちに不徳の名をくだすべからず。その徳と不徳との分界には一片の道理なるものありて、この分界の内にあるものはすなわちこれを節倹と言い、また経済と称して、まさに人間の勉むべき美徳の一ヵ条なり。 |
奢侈もまたかくのごとし。ただ身の分限を越ゆると否とによりて、徳不徳の名をくだすべきのみ。軽暖を着て安宅に居るを好むは人の性情なり。天理に従いてこの情欲を慰むるに、なんぞこれを不徳と言うべけんや。積んでよく散じ、散じて則を踰えざる者は、人間の美事と称すべきなり。 また誹謗と弁駁とその間に髪はつを容いるべからず。他人に曲を誣うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄の公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。 |
右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。(福沢諭吉『学問のすすめ』1872年) |
なお、ニーチェにとって奴隷あるいは弱者の起源の重要なひとつは債務者である。
◼️債権者と債務者 |
われわれの研究の本筋を再び辿ることにするが、負い目とか個人的責務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手[Käufer und Verkäufer]、債権者と債務者[Gläubiger und Schuldner]の間の関係のうちにもっている。ここで初めて個人が個人に対時し、ここで初めて個人が個人に対比された。この関係がすでに多少でも認められないほどに低度な文明というものは、未だに見出されないのである。値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換するーーこれらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟そのものになっているほどだ。最も古い種類の明敏さはここで育てられた。人間の矜持、他の畜類に対する優越感の最初の萌芽も同じくここに求められるであろう。 事によると、《Mensch》[人間](manas) というわれわれの言葉もやはり、ほかならぬこの自己感情のあるものを表現しているのかもしれない。人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、「本来価値を査定する動物」として自らを特色づけた。 |
Das Gefühl der Schuld, der persönlichen Verpflichtung, um den Gang unsrer Untersuchung wieder aufzunehmen, hat, wie wir sahen, seinen Ursprung in dem ältesten und ursprünglichsten Personen-Verhältnis, das es gibt, gehabt, in dem Verhältnis zwischen Käufer und Verkäufer, Gläubiger und Schuldner: hier trat zuerst Person gegen Person, hier maß sich zuerst Person an Person. Man hat keinen noch so niedren Grad von Zivilisation aufgefunden, in dem nicht schon etwas von diesem Verhältnisse bemerkbar würde. Preise machen, Werte abmessen, Äquivalente ausdenken, tauschen – das hat in einem solchen Maße das allererste Denken des Menschen präokkupiert, daß es in einem gewissen Sinne das Denken ist: hier ist die älteste Art Scharfsinn herangezüchtet worden, hier möchte ebenfalls der erste Ansatz des menschlichen Stolzes, seines Vorrangs-Gefühls in Hinsicht auf anderes Getier zu vermuten sein. Vielleicht drückt noch unser Wort »Mensch« (manas) gerade etwas von diesem Selbstgefühl aus: der Mensch bezeichnete sich als das Wesen, welches Werte mißt, wertet und mißt als das »abschätzende Tier an sich«. – |
(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第8節、1887年 ) |
◼️柄谷行人による債務(負い目)の簡潔な記述 |
《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
フョードル・パーヴロヴィッチ:それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね。(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』) |
◼️柄谷行人によるルサンチマン批判(吟味) | ||||||
ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。 彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。 ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。 しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部第3章、2001年) | ||||||
括弧入れについては➤参照:「柄谷行人=カントの「括弧入れ=無関心」」。 《人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen]》(ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889)とした「強者と弱者」は➤参照
さらに先の文で柄谷が引用している「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」はマルクスの言葉である。 | ||||||
経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。 Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年) | ||||||
柄谷による注釈ーー、 | ||||||
『資本論』が考察するのは…関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。 こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) | ||||||
《彼らがおかれる場によって規定されている》とは構造主義の始祖レヴィ=ストロースの例えば次の文に相当する。 | ||||||
要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年) | ||||||
先に戻れば、ニーチェの立場を柄谷の言うように「実践的判断」とすれば、現在では評判の悪い「自己責任への意志」、「同情批判」等は、「理論的判断」あるいは構造主義的判断を括弧入れする範囲では、肯定的に捉えることができる。 | ||||||
いったい自由とは何か? 自己責任への意志をもつことである。私たちを分離する距離を固持することである。辛苦、冷酷、窮乏に対して、生に対してすら無関心となることである。おのれの問題のために、おのれ自身をもふくめて人々を犠牲にする用意のあることである。自由とは、男性的な本能、戦いと勝利をよろこぶ本能が、他の本能を、たとえば「幸福」の本能を支配することを意味する。 自由になった人間は、自由となった精神はなおさらのことだが、小商人、キリスト者、牝牛、婦女子、イギリス人、 その他の民主主義者が夢想する軽蔑すべき安穏さを踏みにじる。自由な人間は戦士である。 | ||||||
Denn was ist Freiheit? Daß man den Willen zur Selbstverantwortlichkeit hat. Daß man die Distanz, die uns abtrennt, festhält. Daß man gegen Mühsal, Härte, Entbehrung, selbst gegen das Leben gleichgültiger wird. Daß man bereit ist, seiner Sache Menschen zu opfern, sich selber nicht abge-rechnet. Freiheit bedeutet, daß die männlichen, die kriegs- und siegsfrohen Instinkte die Herrschaft haben über andre Instinkte, zum Beispiel über die des »Glücks«. Der freigewordne Mensch, um wie viel mehr der freigewordne Geist, tritt mit Füßen auf die verächtliche Art von Wohlbefinden, von dem Krämer, Christen, Kühe, Weiber, Engländer und andre Demokraten träumen. Der freie Mensch ist Krieger | ||||||
(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第38節『偶像の黄昏』所収、1888年) | ||||||
わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。つまり、同情の手が一個の偉大な運命、痛手にうめいている孤独、重い罪責をになっているという特権の中へ差しでがましくさしのべられると、かえってそれらのものを破壊してしまいかねないからだ。同情の克服ということを、わたしは高貴な徳の一つに数えている。 | ||||||
Ich werfe den Mitleidigen vor, dass ihnen die Scham, die Ehrfurcht, das Zartgefühl vor Distanzen leicht abhanden kommt, dass Mitleiden im Handumdrehn nach Pöbel riecht und schlechten Manieren zum Verwechseln ähnlich sieht, – dass mitleidige Hände unter Umständen geradezu zerstörerisch in ein grosses Schicksal in eine Vereinsamung unter Wunden, in ein Vorrecht auf schwere Schuld hineingreifen können. Die Überwindung des Mitleids rechne ich unter die vornehmen Tugenden: | ||||||
(ニーチェ『この人を見よ』「Warum ich so weise bin.」第4節、1888年) |