何度か掲げているが、ホントにこうなのかね。
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すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である[daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... ](ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』所収、1888年) |
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芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 ) |
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「美」という概念が性的興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの sexuell Reizende(「魅力」Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる[Es scheint mir unzweifelhaft, daß der Begriff des »Schönen« auf dem Boden der Sexualerregung wurzelt und ursprünglich das sexuell Reizende (»die Reize«) bedeutet. ](フロイト『性理論三篇』第1 篇 、1905年) |
このニーチェとフロイトではなく、ジュネ=ジャコメッティでもいいが。
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美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。 |
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Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. |
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(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳) |
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傷[blessure]、すなわちトラウマだ、ーー《トラウマ(ギリシャ語のτραῦμα(トラウマ)=「傷」に由来)とは、損傷、または衝撃のことである[Un traumatisme (du grec τραῦμα (trauma) = « blessure ») est un dommage, ou choc]》(仏語Wikipedia)。 つまり美の起源はトラウマであり、フロイトにとって「性欲動=リビドー=不安=トラウマ」だ。 |
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私は性欲動のエネルギーとその形態にリビドーの名を与えた[Ich nannte die Energie der Sexualtriebe ― und nur diese ― Libido.](フロイト『自己を語る』1925年) |
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不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年) |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
つまり、先のニーチェーー《芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである》ーーに結びつく。
どうだい? 女の美は性欲動に関係するだろうが、問いは芸術の美だね。そこのキミ!反論してくれよ。ボクは最近、音楽の美に触れるたびに考え込んじゃうんだ。それともキミがブラボーを連発しているのはイク〜ということなのかい?
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そういえば、佐藤春夫も荷風論でこう言ってるな、 |
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芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。名文家と好色家との間にある心理的もしくは生理的な必然の関係は将来必ず研究発表されるであらう。ダンヌンチオの詩文、レニヱーのもの、わが荷風文学も亦その時の有力な証左として引用さるべきものであらう。色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。グルモンの所説の如く美学の中心は心臓よりももつと下部にある。この認識が荷風文学を理解の有力な鍵である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年) |