やあ、今日は勉強になるな、
➤動画
デュシャンだねえーー、
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芸術でないような作品をつくることができようか[ Peut-on faire une œuvre qui ne soit pas d’art?](Duchamp en 1923) |
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私は真剣に信じている、絵画をつくるのは、アーティストと同じくらい、観客だと。[Je crois sincèrement que le tableau est autant fait par le regardeur que par l'artiste.](Marcel Duchamp en 1960) |
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デュシャン=マルクスだよ、 |
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対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器(泉)ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったものーーである。 デュシャンの功績は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことだけではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。 |
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日常生活において、われわれはこの種の物象化 reification の犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまうのである。つまり、純粋に形式的または構造的な決定を物体の直接的な特性と誤解しているのである。だからこそ、デュシャンの展覧会ではまったく正当な挑発を想像できるのである。観客が小便器に排尿し始める。驚いた傍観者たちが、ここはトイレではなく美術館だと指摘すると、彼はこう答える、「いや、君は分かっていない。私が芸術作品の空間に入ったとき、私の活動も芸術パフォーマンスになった。私がしたのは俗悪な脱昇華ではなく、芸術の崇高な空間を新たな内容で満たしただけだ…」と。 |
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the aura emanating from an object hinges not on the object's direct properties, but on the place it occupies. The classic example of this dependency on place is, of course, Marcel Duchamp's well‐known urinal, which became an art object by being exhibited as such. Duchamp's achievement was not just to extend the scope of what counts as a work of art (even a urinal), but—as a formal condition of such universalization—to introduce the distinction between an object and the (structural) place it occupies: what makes a urinal a work of art is not its immanent properties, but the place it occupies (in an art gallery)—or, as Marx put it long ago apropos commodity fetishism, people do not treat a person as a king because he is a king, he is a king because people treat him as such.39 In everyday life, we are victims of a kind of reification: we misperceive a purely formal or structural determination as a direct property of an object. This is why one can imagine a quite justified provocation at a Duchamp exhibition: a spectator starts to urinate into the urinal; when the shocked bystanders remind him that this is an art gallery, not a toilet, he replies: “No, you don't get it: when I entered the space of the art object, my activity also became an art performance—what I did was not vulgar desublimation, I merely filled the sublime space of art with new content …” |
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(ジジェク Slavoj Žižek, LESS THAN NOTHING, 2012年) |
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次の二文は基本的に等価だ。 |
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この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと信じているのだ[Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist.](マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章註) |
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一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。Eine Ware scheint nicht erst Geld zu werden, weil die andren Waren allseitig ihre Werte in ihr darstellen, sondern sie scheinen umgekehrt allgemein ihre Werte in ihr darzustellen, weil sie Geld ist. (『資本論』第一巻第一篇第二章) |
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で、ここに柄谷=ラカンがいる。 |
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貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」) |
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すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』1978年) |
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マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
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人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.] (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
この今の日本の文脈であるなら「権力のフェティシズム」があるんだよ。ションベン器女でも権力のポジションに置かれればだんだんサマになってくるからな。
だからキミたちもせいぜいジジェク曰くの《デュシャンの展覧会ではまったく正当な挑発を想像できる……観客が小便器に排尿し始める。驚いた傍観者たちが、ここはトイレではなく美術館だと指摘すると、彼はこう答える、「いや、君は分かっていない。私が芸術作品の空間に入ったとき、私の活動も芸術パフォーマンスになった。私がしたのは俗悪な脱昇華ではなく、芸術の崇高な空間を新たな内容で満たしただけだ…」と。》ーーこの観客をはやいとこヤッテおかないとな。
いやあこう記したら伊藤比呂美さんの名詩を思い出しちゃったな、ゼンゼン関係ないけどこの際貼り付けておくよ。
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きっと便器なんだろう 伊藤比呂美 |
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ひさしぶりにひっつかまえた じっとしていよ じっと あたしせいいっぱいのちからこめて しめつけてやる |
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抱きしめているとしめ返してきた 節のある おとこのゆびでちぶさを掴まれると きもちが滲んで くびを緊めてやりたくなる |
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あたしのやわらかなきんにくだ やわらかなちからの籠め方だ 男の股に股が あたる 固さに触れた 温度をもつぐりぐりを故意に 擦りつけてきた その意思に気づく わたしの股をぐりぐりに擦りつける |
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したに触れてくびすじを湿らせてやるとしたは わたしのみみの中を舐めるのだ あ声が洩れてしまう 髪の毛の中にゆびを差し入れけのふさを引く あ声が漏れる ぐりぐりの男は ちぶさを握りつぶして芯を確かめている い、と出た声が いたいともきこえ いいともきこえる わたしはいつもいたい、なのだ あなたはいつもいたくする |
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さっきはなんといった あいしてなくたってできる、といったよね このじょうのふかいこういを できる、ってあなたは 何年も前に、I という男と やったことがある 今、体重と体温がわたしのしりを動き 畳の跡をむねに きざみながらわたしはずっと I を わすれていた I を忽然と I を |
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I の部屋 I によって 手早く蒲団が敷かれたこと とうめいな ふくろ、とか こんなことやってきもちよくなるのかあたしはちっともよくならない と言ったら I が 抜いてしまったこと きもちよくならなくても暖かく あてはまっていたのに 駅まで抱きあって歩いた風が強く とても寒く かぜがつよくとてもさむく とてもさむく そのあといちど会った腕に 触らせてもらって歩いた 性交しないで別れた それから 会うたびに泣いた、あこれはあなたに対するときだ わたしをいんきだと言った I の 目つきが残るその I のことをずっと |
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あたしは便器か いつから 知りたくは、なかったんだが 疑ってしまった口に出して 聞いてしまったあきらかにして しまわなければならなくなった |
……………
ところでこの動画はスバラシイよ、とくに若い人はーーいや若くなくてもーー後学のために是非見ておいたほうがいいよ。
Vimeoで出会った動画では、➤Nobuyoshi Araki at work by Sono Sion と同じくらい傑作だね。
荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を行き過ぎる世田谷区の草木を見ているこの季節はようりょくそが層をなしている飽和状態まで水分がたかまる会えばたのしさを感じるだから媚びて手を振るが性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である
性行為に当然さがつけ加わった
踏切を渡って駅に出る
もしかしてぬるぬるのままの性器にぱんつをひっぱりあげて肉片の残る喜多見の踏切を渡ったかもしれないのである
水分はあとからあとから湧きでて
ぱんつに染みた
ーー伊藤比呂美「小田急線喜多見駅周辺」




