ZHW@weiwei882288 氏は実にしっかりしたことを言っている人だ、全面的に受け入れ必要は毛頭ないにしろ、少なくとも政治に関してこういう人のツイートを読むべきだよ。
「文化的権威主義」とあるが、言い換えればこういうことだろう。
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「春秋二義戦ナシ」とは孟子の言葉である。日本国の十五年戦争、南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで―を冒したことは、いうまでもない。そういうことのすべてが、いまからおよそ半世紀まえにおこった。 いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない、今日の問題である。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんな若い日本人も免れることはできない。かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面と対決しない限り、またそうすることによって 再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しない限り。たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別...。(加藤周一『夕陽妄語2』1992-2000) |
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ZHW@weiwei882288氏は、さる人のリツートで先ほど初めて知った。細谷雄一批判のツイートである。
細谷雄一だけでなく小泉悠や東野篤子等の、初期にゼレンスキーを絶賛した「ウクライナ応援団」の中堅の国際政治学者たちがいまだその基本的スタンスを変えず言論人として生き残っていること自体、きわめて異様な日本の言論空間だと私は常々思っている。
これも本日、意気のいい與那覇潤氏が「「専門家」が大凋落した2025年を偲び、祝い、送る。」 (2025.12.28)にて 、《センモンカどうしの「庇いあいカルト」は解体され、罪を裁かれなければならない》とあり、《26年、いよいよ「人民裁判」開廷か》としているが、是非ともこの「人民裁判」が実現してほしいものである。
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この「人民裁判」自体、容易になされないのが、先のZHW@weiwei882288氏のいう「空気を読む」文化の効果であり、それは名高い日本的「共感の共同体」に結びついてゆくのだが。 |
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ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収) |
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公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年) |
※参照▶︎空気を読む文化と日本語の二人称的性格
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これ以外にも、そもそもセンモンカ集団とは基本的に次の内実を抱えている者の集まりである。 |
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蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
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ここで蓮實が言っている「共同体」とは柄谷の言い方なら次の意味である、《ここで、誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。》(柄谷行人『探求Ⅱ』第三部「世界宗教をめぐって」第一章「内在性と超越性」1989年) |



