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2025年12月24日水曜日

人はみな差別主義者


◼️差別主義者としてのプラトン

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」〔・・・〕


「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」〔・・・〕

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」〔・・・〕

「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」

(プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369


◼️差別主義者としてのフロイト

私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もない錯覚[Illusion]であることを見抜くことはできる。


私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲[Aggressionslust からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。


攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき[zärtlichen und Liebesbeziehungen の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。


物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係[sexuellen Beziehungen の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 Ungerechtigkeiten を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)




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酒井直樹)差別はいろいろな形で存在しています。民族差別、人種差別、性差別についてはこれまで話になりましたが、それ以外の差別があります。家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです。ではこれらの差別のうちの何が問題になるのでしょうか。柄谷さんがいわれた形式的な平等にこれらの差別のうちの何が抵触し、何が抵触しないのでしょうか。家族の内外、会社の上下間、さらに入学試験の点数による差別でも、そこに、人種、民族、国民、身分、出自、性などの要素が絡まない限り、一般に差別として問題にされることはないでしょう。なぜ、ことさら、ある種の差別のみ取り上げて、それを弾劾しなければならないのでしょうか。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』11-1996


ーー《家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです》とあるが、この問いに対して柄谷行人は黙然としてしまう。


要するに、形式的な平等はタテマエであり、偽善であるだろう。

柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


◼️文明は偽善

文明の圧迫[Druck der Kulturは、病的な結果をもたらすことこそないが、しかし、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動[gehemmten Triebeを一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発する。つねに手本通りに反応することを強いられている者は、その手本が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者[Heuchlerとよばれてしかるべきである。ここで、その手本と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実を範として生きようと企てようものなら、その文明は根本的な変革をこうむらねばならないのである。

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)



人はみな差別主義者であったとしても偽善は大事だよ。ドゥルーズの左翼と右翼の定義を受け入れて、別の言い方をすれば、人はみな右翼であったとしても、タテマエとしての左翼であることは大事だ。


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年)


ーー注意しなくてはならないのは偽善の効果を持つ陽性の偽悪だね、このタイプが日本では特に共感を生むんだな。さらにいっそうの注意は陰性の偽悪だ、これは事実上、ニーチェの云うルサンチマンだ[参照]。


「一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、背のびした生き方を嘲笑するというのはよく見られる風景であります。江戸の「町人根性」以来の、これが一つの処世術です。こういうところから、最初に自分のマイナスをさらけだすと、かえって、あいつはなかなかアケスケだとか、人間味がある、なんて褒められる。これが日本の「真心」文化の盾の反面であります。」(丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」1985.7

「居直り偽悪は陽性であります。けれども、居直り偽悪が陰性になったのが、福沢があらゆる悪の中で最も悪い悪と規定した、怨望というものです。つまり、独立自尊の反対概念で、独立自尊の欠如体が怨望になる。まったく陰性一方で、生産性がゼロな悪徳が怨望なのです。自分が上がるのではなくて、他人を不幸に陥れ、下に引きずり下ろして彼我の平均を得ようという心理を、彼は怨望と言ったのです。他人に対して常に羨み、嫉妬し、対峙するという感情ですから、独立自尊と反対になります。」(丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」1985.7



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一九七三年の「批林批孔」運動に関わる孔子批判も、根にあるのは差別主義者孔子批判なのだろうよ。


▶︎孔子批判の根底にあるもの : 一九七三年の「批林批孔」運動を中心に

▶︎中国の孔子批判に関する諸問題

▶︎十全大合前後における孔子批判論文目録


3番目の論文にはこうあるが、少なくとも「ほぼ」正しいのだろう。

今回の孔子に對する批判は、その思想だけにとどまらず、孔子自身の行動に及び廣範な角度から検討されているが、その主要な論點を以下にかいつまんで述べておく。孔子の思想の核心となる仁は、本来、殷周奴隸主階級が、彼らの内部結束と支配力とを強化するためのイデオロギーであった。この仁にし、その根本は、孝・悌であることを明らかにすることにより、没落しつつある奴隷主貴族らの相互的争奪戦からくる崩壊を救おうとした。すなわち、孝は祖先父母の縦の面から、悌は同輩兄弟の横の面から縦横に結束させるのに役立つのである。また、忠恕も仁の内容であり、奴隷が奴隷主に忠誠を書くし、また各階級の上位者への忠誠とされるが、その目的は各級奴隷主の支配關係を強固にすることであった。恕も奴隷にし寛容であれと言うのではなく、同じ階級に属しながら没落してしまった奴隷主貴族に寛容を示し内的結束を計ることを意圖しているのである。さらに、正名を首唱したが、これも舊秩序を復活して、奴隷主階級の主観的観念で變革しつつある社會を規制してゆこうとした。孔子が説いた徳政や仁愛も、超階級的に行われたものではなく、奴隷主内部にのみ限定されていた。要するに孔子の思想はすべて歴史上沒落しつつあった奴隷主貴族階級に奉仕するものであると規定している。



というか、これは「常識」なのかね、私は孔子に殆ど関心がなかったので今まで知らなかっただけで。


いずれにせよ、昔の教えをナイーブに現在に当てはめたらダメということだな。アテネのデモクラシーでもそうだ。



近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。

 

ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。

ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。(中井久夫「近代精神医療のなりたち」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収)


《国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました》とあり、一番上層の《市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っている》。こんなものはキレイごとだと。民主主義から外れるのは、奴隷や職人、外国人だけではない。当時のこと、もちろん女性も排除されている。


柄谷もこう言っている。


アテネの民主主義は成員の「同質性」に基づいている。それは異質な者を排除する。その象徴的な例が民主派によるソクラテスの処刑である。〔・・・〕

ソクラテスを告訴し有罪にしたのは(アテネの)民主政であった。

ソクラテスが人々の目に、アテネの社会規範に対して最も挑戦的な存在として映ったのは、告訴にあった理由(ポリスの神々をみとめないこと等)からではない。根本的な理由は、彼がアテネにおいて、公人として生きることの価値を否定したことである。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


というわけでナチの天才理論家シュミットのお出ましだね、

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質な者の排除または殲滅である。[]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。

Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß.

(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



日本のような同質社会は実に民主主義的であって、ゆえに村八分という排除が容易に起こる。


日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕

社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。


これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

まァどこの国でもそういう面はあるかと思いますが、殊に日本の社会では集団指向性が強い。"みんな一緒に"という傾向。横断歩道を渡る時も()みんなで一緒に渡ろうとするし、遊ぶ時もみんな同じ遊びをということが多い。文化的にも、あるいは娯楽の面でさえも、また政治にも付和雷同性がある。何かがあるていど流行しだすと、みんなそこへ行く。だから歯止めがない。社会がまずい方向に動き出しても、付和雷同し、その動きが雪だるま式に大きくなる。これは非常に危険です。その歯止めは個人主義のほかにないでしょう。日本では個人主義を付和雷同性の解毒剤として、強化する必要があります。(『加藤周一講演集2 伝統と現代』1996