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2025年12月20日土曜日

下層の上層へのいじめの凄まじさ

 

ははあ、確かにこうだろうな。ボクはツイッターを満遍なく見ているわけでは全くないが、わずかに垣間見るだけでも、いわゆる下層の上層へのいじめは凄まじいよ。なかにはほとんど毎日それをやっている人もいる。





ま、これは日本だけの現象ではないんだろうけどさ。

社会の中に集合精神その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬[ursprünglichen Neid]から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義[Soziale Gerechtigkeit]の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求こそ社会的良心と義務感の根源である。

Was man dann später in der Gesellschaft als Gemeingeist, esprit de corps usw. wirksam findet, verleugnet nicht seine Abkunft vom ursprünglichen Neid. Keiner soll sich hervortun wollen, jeder das gleiche sein und haben. Soziale Gerechtigkeit will bedeuten, daß man sich selbst vieles versagt, damit auch die anderen darauf verzichten müssen, oder was dasselbe ist, es nicht fordern können. Diese Gleichheitsforderung ist die Wurzel des sozialen Gewissens und des Pflichtgefühls.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)



日本が特にそうなのは、日本人は心情的にはいまだ平等社会のつもりでいるからではないかな、経済的格差は21世紀になってあまりにも歴然としてきたにも関わらず。


根源的イデオロギーのカテゴリーとしての「犠牲の神秘」について最もラディカルでクリティカルな分析を提供したのは『聖なるものの刻印』(2008)のジャン=ピエール・デュピュイである。デュピュイの結論はこうである。正義の社会、自らを正義と見なす社会がルサンチマンから逃れると考えるのは、大きな間違いである。反対にまさにそのような社会こそ、劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として、ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す。


The most radical critical analysis of the “mystery of sacrifice” as a fundamental ideological category is in fact provided by Jean‐Pierre Dupuy…Dupuy draws the conclusion that it would be a great mistake to think that a society which is just and which also perceives itself as just will thereby be free of all resentment—on the contrary, it is precisely in such a society that those who occupy inferior positions will only find an outlet for their hurt pride in violent outbursts of resentment. (ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012


ーーデュピュイは階級社会のほうがルサンチマンは少ないと言ってるが、確かにそうだろう。


ここでの「ルサンチマン」について、少し前ニーチェのこの語の使用法を掲げたが(➤ルサンチマン文献)、そこでも示唆したように、基本的には福沢諭吉の「怨望」だよ。ここでは福沢諭吉から直接ではなく、小林秀雄の巧みな「要約まとめ」を掲げておく。




「学問のすゝめ」の中に、「怨望の人間に害あるを論ず」という一章があるが、福沢の鋭い分析的な観察力がよく現れている。人間品性の不徳を語る言葉の種類は、実に沢山あるが、その内容をなす人心の動きに着目すれば、その強弱、方向に由って、間髪を容れず、徳を語る言葉に転ずる。例えば、「驕傲」は「勇敢」に、「粗野」は「率直」に、「固陋」は「実着」に、「浮薄」は「穎敏(えいびん)」に、という具合に切りがない。ところが、絶対的に不徳を現わして、徳には転じないものが一つある。それが「怨望」という言葉である。


「欺詐」とか「虚言」とか言われるものも、ずい分根本的な不徳を現わしているように思われているが、よく考えてみると、欺詐も虚言も怨望から生ずる結果であって、怨望の原因となるほど根柢的なものではない。実に「怨望は衆悪の母」であり、その「働の素質に於て全く不徳の一方に偏し、場所にも方向にも拘らずして不善の不善なる者」と福沢は主張する。何故か。彼は、一言で片附ける。「たゞ窮の一事」にある、と。窮と言っても、困窮の窮ではない。これに備わる「人類自然の働を窮せしむる」に在る。「怨望」は、自ら顧み、自ら進んで取るという事がない。自発性をまるで失って生きて行く人間の働きは、「働の陰なるもの」であって、そういう人間の心事は、内には私語となって現れ、外には徒党となって現れる他に現れようがない。怨望家の不平は、満足される機がない。自発性を失った心の空洞を満すものは不平しかないし、不平を満足させるには自発性が要るからだ。


そこで、彼は、他人を、自分の不平状態にまで引下げて、彼我の平均を得ようと希うだけである。「富貴は怨の府に非ず、貧賤は不平の源に非」ず。これほど、不平家にとって、難解な言葉はない。不平は、彼の生存の条件である。不平家とは、自分自身と折合いの決して附かぬ人間を言う。この怨望という、最も平易な、それ故に最も一般的な不徳の上に、福沢の「私立」の困難は考えられていた。もし、そうでなかったら、彼は、「私立」を説いて、「独立の丹心」とか「私立の本心」とかいう言葉が使いたくなった筈もなかった。「士道」が「民主主義」に変っても、困難には変りはない。「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は、「私立」の内を腐らせる。福沢は、この事に気附いていた日本最初の思想家である。

(小林秀雄「福沢諭吉」1962年)






附記


先に掲げたジジェク=デュピュイの「正義の社会こそ、劣等の地位を占める者たちが、自らの傷つけられた誇りの捌け口として、ルサンチマンの暴力的噴出を生み出す」とは、基本的には次のニーチェのヴァリエーションである。


より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887)

強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888

最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888


ーー《強者は分散しようと努め、弱者は結合しようと努めるのは自然の摂理である[die Starken streben ebenso naturnothwendig aus einander, als die Schwachen zu einander]》(ニーチェ『道徳の系譜』第3論文18節、1887年)


そして民主主義的社会ーーデュピュイの文脈では正義の社会ーーにおいて起こることについてこうある。

ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。

In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht

(ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888


そして最終的にはニーチェはこう記している。

人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen](ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889



このニーチェと似たようなことをフローベールも既に1850年代に言っている。

平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。

Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage.  (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851

1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。

89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853)


この当時のフランスは社会の大衆化(民主化・平等化)が顕著になった時期だった。フローベールは社会的平等の進行に伴って精神的優位性が破滅に瀕している状況にひどく苛立っていたのである。



クンデラがフローベールに準拠しつつ、《進歩とともに、愚かさも進歩する!》と言っているのはこの文脈のなかにある。


◼️ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



私はぺぺ・エスコバルがユエン・ユエン・アンを引用しつつ次のように言っているのを読んで、このクンデラを思い起こしたが、今はここまで引用してきたすべての文とーー少なくとも遠巻きにーー結びつけてもよいかもしれない。



◼️ペペ・エスコバル「中国のキツネ、アメリカのサメ、ヨーロッパのネズミ」

Chinese foxes, American sharks, European rodents, Pepe EscobarJuly 31, 2025

……シンガポール出身のユエン・ユエン・アンは、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学で政治経済学の教授を務めている。彼女は、その定義上、例外主義である米国の学界の厳格な方針に従わなければならないかもしれない。しかし、少なくとも彼女はいくつかの貴重な洞察力を持っている。


例えば、「私たちは皆、注意力の欠如に悩まされている。以前は本を読み、次に記事、そしてエッセイ、ブログと読んできたが、今では 280 文字のツイートにまで短縮されている。その小さなスペースにどのようなメッセージが収まるか想像できるだろう。それは単純なものになるに違いない」と。


これは、サーカスのリングマスター(トランプ)が、無意味な投稿を積み重ねて支配している外交政策の本質を突いている。

Yuen Yuen Ang, from Singapore, is a professor of political economy at Johns Hopkins University in Baltimore. She may need to tow the – strict – lines of US academia, which is exceptionalist by definition. But at least she’s capable of some valuable insights.  

For instance: “We’re all suffering from an attention deficit. We used to read books, then articles, then essays, then blogs, and now it’s further reduced to tweets of 280 characters. So you can imagine what sorts of messages fit in that tiny space. It has to be simplistic.”

That cuts to the heart of how the Circus Ringmaster is conducting his foreign policy; ruling via an accumulation of nonsensical posts.