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2026年2月23日月曜日

日本人の「バカ化」問題をめぐって


「バカ化」の話で賑わっているようだな、


 

で、バカになったのは「生きることに精一杯な人」、つまり貧しくなったせいだ、という話をしている人もいるし、いやそう考えること自体、バカ化だという人もいる。


ま、でも何よりもまずバカ化はSNSのせいじゃないかな。


◼️ペペ・エスコバル「中国のキツネ、アメリカのサメ、ヨーロッパのネズミ」

Chinese foxes, American sharks, European rodents, Pepe EscobarJuly 31, 2025

……シンガポール出身のユエン・ユエン・アンは、ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学で政治経済学の教授を務めている。彼女は、その定義上、例外主義である米国の学界の厳格な方針に従わなければならないかもしれない。しかし、少なくとも彼女はいくつかの貴重な洞察力を持っている。


例えば、「私たちは皆、注意力の欠如に悩まされている。以前は本を読み、次に記事、そしてエッセイ、ブログと読んできたが、今では 280 文字のツイートにまで短縮されている。その小さなスペースにどのようなメッセージが収まるか想像できるだろう。それは単純なものになるに違いない」と。


これは、サーカスのリングマスター(トランプ)が、無意味な投稿を積み重ねて支配している外交政策の本質を突いている。

Yuen Yuen Ang, from Singapore, is a professor of political economy at Johns Hopkins University in Baltimore. She may need to tow the – strict – lines of US academia, which is exceptionalist by definition. But at least she’s capable of some valuable insights.  

For instance: “We’re all suffering from an attention deficit. We used to read books, then articles, then essays, then blogs, and now it’s further reduced to tweets of 280 characters. So you can imagine what sorts of messages fit in that tiny space. It has to be simplistic.”

That cuts to the heart of how the Circus Ringmaster is conducting his foreign policy; ruling via an accumulation of nonsensical posts.


このペペ・エスコバル=ユエン・ユエン・アンの言っていることは、次のクンデラ=フローベールとともに読むとよりいっそう理解しやすい。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)


愚かさは進歩したんだよ、フローベール自身の言い方なら、平等化、奴隷化、凡庸化のでせいで。


平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。

Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage.  (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851

1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。

89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853)


これはニーチェの言い方なら精神的強者は弱者の群れに敗北したということだ。


人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen](ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889


より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887)

強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888

最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888

強者は分散しようと努め、弱者は結合しようと努めるのは自然の摂理である[die Starken streben ebenso naturnothwendig aus einander, als die Schwachen zu einander](ニーチェ『道徳の系譜』第3論文18節、1887年)


これこそ民主主義社会の特徴だね。


ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。

In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht

(ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888



つまり大衆社会の特徴だな、ーー《民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。》(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年)


ところで、なんとあの常岡浩介くんが実にスバラシイ応答をしているな、日本人バカ化を大いに促進したウクライナ応援団長のひとりの彼には可能な限り触れたくないのだが、この際、已む得ず貼り付けざるを得ない。





これは、フローベリアン蓮實重彥の言い方なら「記号の記号」の流通の時代だな。



……いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通形態の変化なのである。少数の特権者によって発信された記号が多数の匿名者によって受信されている限り、大衆化現象は現実のものとはならない。特権的な知は、きまって堅固な階層秩序によって文化を保証しているからである。それは、欠落を埋めるかたちで改めて秩序維持に貢献するだろう。大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記でしかない。〔・・・〕読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。〔・・・〕それは、みずからも、記号の記としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。


この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ〔・・・〕。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第3部「Ⅻ 通俗小説の時代」1988年)


この蓮實の書は、柄谷行人が主に中野重治論である「死語をめぐって」(1990年)で指摘しているが、「芸術家」は「知識人」に置き換えうる。つまり「凡庸な知識人の肖像」でもある。例えば上の引用の最後の文なら、「まがりなりにも知識的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない」と。いささか蓮實一流の挑発的極論のアスペクトはないではないが、これこそまさに現在、SNS装置で典型的に起こっていることだろうよ。


ドゥルーズの言い方ならこうだ、ーー《耐え難いのはもはや重大な不正などではなく、日々の凡庸さが恒久的に続くことだ[L'intolérable n'est plus une injustice majeure, mais l'état permanent d'une banalité quotidienne. 》(ドゥルーズ『シネマ 1985



というわけで、バカ化は日本人だけの現象じゃないよ。とはいえ、もし日本人のバカ化が世界に突出しているなら至高の民主主義的ムラ社会のせいじゃないかね、▶︎大勢順応主義あるいは体制順応主義


なにはともあれ、何よりもまず避けるべきは、SNSの狭い範囲のクラスタ内で「湿った瞳を交わし合い頷き合う」ことだよ、浅田彰は巧いこと言っていたがねーー都市の広場(アゴラ)という共通の土俵の上での論争ではなく、そもそも土俵を共有しない村同士の部族的(tribal)な対立が全面化してきたというメディア論的変容があるのではないか。》(浅田彰「トランプから/トランプへ(3)マクルーハンとトランプ、あるいはマス・メディア都市に対するトランプ村」20181020

これだろ、キミらがツイッターでつるんでいるのは。やめとけよ、これだけは。ーー《だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう[Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.]》(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien1796年)

ま、これらだけではなく、他にも例えば「文学の欠如」という話もあるがね


◼️文学の欠如(不確定なものへの関心の欠如)

今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如にたいしてではないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。(古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演『群像』2012 12 月号)


◼️人は宙吊りに耐えらえず、決まり切った概念、用語、符号が与えられることを求める

人がサスペンデッドな状態、宙吊りの状態に耐えられなくなっているんです。むずかしい問題は、たいがいサスペンデッドです。判断が下せない期間が長くなります。その猶予に耐えられないから、決まり切った概念、用語、符号が与えられることを求めるんです。(古井由吉「宙吊りに耐えられない」『人生の色気』2009年)



つまりは、ここでもクンデラを掲げれば、小説の知恵の欠如だね、

◼️小説の知恵(不確実性の知恵)la sagesse du roman (la sagesse de l'incertitude)

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。


この〈あれかこれか〉のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ「不評を買ったセルバンデスの遺産」『小説の精神』所収、1986年)

L'homme souhaite un monde où le bien et le mal soient nettement discernables car est en lui le désir, inné et indomptable, de juger avant de comprendre. Sur ce désir sont fondées les religions et les idéologies. Elles ne peuvent se concilier avec le roman que si elles traduisent son langage de relativité et d'ambiguïté dans leur discours apodictique et dogmatique. Elles exigent que quelqu'un ait raison ; ou Anna Karénine est victime d'un despote borné, ou Karénine est victime d'une femme immorale ; ou bien K., innocent, est écrasé par le tribunal injuste, ou bien derrière le tribunal se cache la justice divine et K. est coupable.

Dans ce "ou bien-ou bien" est contenue l'incapacité de supporter la relativité essentielle des choses humaines, l'incapacité de regarder en face l'absence de Juge suprême. A cause de cette incapacité, la sagesse du roman (la sagesse de l'incertitude) est difficile à accepter et à comprendre.

ーーMilan Kundera, l'héritage décrié de Cervantès, L'art du roman


これも人がじっくり本を読まなくなった帰結だよ。

つまり現代人はどっちもどっち論が嫌いなんだ、宇露紛争初期に国際政治学者やら軍事評論家やらがひどく憎悪した「どっちもどっち」がね。アレもバカ化の典型的症状だったな。


……………



附記


先のクンデラ=フローベールに「愚かさの進歩」「紋切型の無思想」とあったが、蓮實発言でこれに関わるものをいくつか列挙しておこう。


◼️蓮實重彥『些事へのこだわり』「久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について」(2024118

なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。


あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)


同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


蓮實自身、この現代的言説から免れているわけではないことを自覚している、▶︎「蓮實語録



制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章の冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こをが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)


制度やら説話論的装置やらとあるが、結局、現代的言説の構造ということであり、そのポジションに置かれたら誰でもこうなってしまうのである。例えばツイッター装置の場に置かれて発言すればそれは覿面に現れる。


要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「ポジションによって」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加しているシステムの構造の関数である(それらに応じて変化する)。

Les termes n'ont jamais de signification intrinsèque ; leur signification est « de position », fonction de l'histoire et du contexte culturel d'une part, et d'autre part, de la structure du système où ils sont appelés à figurer.

(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)


この文脈の中で、次の古井由吉の発言も読むことができる。


日本の言語上の価値観がこうも崩れるとは思わなかった。そういう予測があったら別な生き方したかと思うね。

だからいまちょっともう無念の思いで見てるんだけれども、世上にいろいろ問題が起こるでしょう。その問題がほとんど、言語的な欺瞞から成り立っているのね。これはちょっと僕なんか には気味悪く思われる。俺は何していたんだと思うね。(古井由吉、福田和也との対談「海燕」1996 6 号) 

文学は世間の言語と無縁のはずがないから、文学も現実と共に貧しくなるのは当たり前。


いまほど言葉に実質がなく、言葉の枯渇が感じられることはないのではないか。言葉に信頼がないと、言葉をひっくり返して新しい意味を表現しようとしても、もどかしいだけ。まるで言葉の兵糧攻めにあっているようだ。(古井由吉「朝日新聞」2002 5 24 日夕刊)