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2026年2月27日金曜日

「自伝」としての『治療文化論』


中井久夫『治療文化論』「あとがき」より(「岩波同時代ライブラリー」)。

私は一九八三年の出版後、いちども『治療と文化』をひらくことはなかった。そのままに六年が過ぎた。大岡昇平先生には担当の編集者を通じて、「小説が百かけますね」とのおことばをいただいた。これは、私が「デキゴトロジー」ふうに売りとばしたものの他に、隠し味となっている、その十倍百倍をお読み取りになってのことであろう。私は恐縮し恐れ入った。


大岡先生の小説にはサリヴァンの拙訳『精神医学の臨床研究』が一度だけ登場する。 良書を天秤にかついで訪問販売する青年の話である。先生は、フロイト、ユングも読んだが最後にサリヴァンに到着した、と書き寄こされた。オランダの現象学的精神医学者ファン・デン・ベルグが語り、ルードヴィヒ・ビンスヴァンガーが態度で示したのと同じことである。(木村敏先生所蔵のビンスヴァンガーの写真は、机上みずからのまん前に、サリヴァン著『現代精神医学の概念』の原本を据えたものである。) お手紙によると、大岡先生の『現代精神医学の概念」は朱筆で真赤になっているそうである(いちどぜひみせていただきたいとひそかに念願している)


しかし、わたしは愧じていた。 「デキゴトロジー」の対象になった人たちの顔をまともにみられなかった。そして「妖精の病い」のごとき治療をのぞんでこられる方をみるに及んで恥は後悔に変った。そのひとがよき妻となっていらっしゃることは仄聞のまた仄聞であるが、少し前の風の便りにきかないわけではない。しかし、あれはしようと思ってできることではない。それに治療とはそれぞれのために心をこめて、そのひとだけの一品料理をつくろうとすることである。私の著作は――すべて求められて書いたものであることだけはヴァレリー先生と同じであるが、ほとんどすべて同僚精神科医へのメッセージであり、しばしば特定の一人を念頭に置いて書かれたものである。ではなぜ世に出したのかとお咎めになる方もあろう。私は、このフランス第三共和国の桂冠詩人の同じ問いに対する返事を拝借して「弱さから」(par mes faiblesses) と答えるしかない。


(中井久夫『治療文化論』「あとがき」岩波同時代ライブラリー、1990年)

中井久夫はひどく書き悩んだそうである、《私は、ほとんど「糸をくり出すカイコ」のごときものとなった。その中で私は一九八〇年代『週刊朝日』の「デキゴトロジスト」たちの運命に陥っていった。すなわち、話をにぎわわせるために自分を売り、家族を売り、そして友人を売りかけたのである 治っていない患者を売っていないのがせめてものことであったか。》


たしかにこの書は中井久夫が書き残した「自伝」ようなところがある。上のように記された後、しばらくしてこうもある。


もし「私」小説にならって「私〔わたくし〕精神医学」があるとしたら、この本の半ば、あるいは一側面をそれと名ざされても、私は異議を唱えない。もっとも、「私精神医学」は世に意外に多い。サリヴァンの全著作をまっ先にあげるべきであろう。フロイトはもとより、クレッチュマーはもちろん、ヤスパースさえも――。その仕事の驥尾に付するとしたら光栄この上ないことである。


私がこの本ーー『治療文化論』初稿ーー「治療と文化」1983年)を手にしなかったのには現実的理由もある。一九八三年、大学における私の部屋は取りこわされた。狭い借りずまいを二つまわった。最後の一年は狭く窓さえない、パイプがむき出しの、天井から水漏りのする地下室であった。この一九八六年は、私にとって最低の年であった。しかし、私たちが新しい建物に移ったあと、そこは臨床検査員の居室になるときいて、何も言えなくなった。


この間、私の書籍の大部分は梱包されたままであった。約三分の一を書棚に並べたものの、しばしば重要な片われが箱の中に残った。赴任後六年にして、私は根がほとんど尽き果てようとしていた。フロイトの著作の隣りにはまちがってもユングではなくむろんアードラーではく必ずアブラハムが来なければ気が狂う私である。引越しに際してファイリング・キャビネットの中こそ無事であるが、本の並び方が顧慮されることは決してない。そして私によれば本は並べ方が九割なのである。


七年目にようやく部屋が与えられた。しかし、一年は大まかな整理に暮れた。二年目はいつの間にか紛失している本の捜索に費やされた。その大部分は今日も還らないままである。私は記憶する限りをノートにした。家庭教師代の二ヵ月分を投じてのち一年待って入手した本も一冊二冊ではなかった。


第三年目、私は二人の弁護のために前半を費やした。一人はケースワーカー殺人事件の被告であり、弁護団の一人に依頼されて、私ならこう書くという「最終弁論要旨私稿」(最終稿六〇枚)は一九八九年二月二十四日に完成し、また四月三日に「昭和を送るーーひととしての昭和天皇」は校了となった。私は、ともに、多くの人たちによってその立場上極悪非道ときめつけられ、その人柄を知る者にはイノセントと驚かれているこの二人の弁護に、この年の前半を費やしたことになる。気づいたのは、ずっと後になってのことであるが、その時、私は自分のために、自分の自分に対する弁明のために、この二つはどうしても書かねばならぬことであったのをさとった。そのうち、思いもかけぬ文学賞が私を撃ち、「弱さ」 ゆえに受けた私はひととき衰弱した。私が「ほめ殺され」なかったのは幸運であった。

(中井久夫『治療文化論』「あとがき」岩波同時代ライブラリー、1990年)




「昭和を送るーーひととしての昭和天皇」にも触れられているが、あのエッセイは中井久夫の渾身の作なんだろう、前回記したことを敷衍していえば、戦後、主に左翼知識人のいじめ加害の対象となった天皇裕仁をめぐるあの論は。


天皇制の廃止が、一般国民の表現の自由を高めると夢想するのは現時点では誤りである。新憲法によって強大な権力を持つ首相のほうがはるかに危険である。権限なくて責任のみ多い脆弱な旧憲法上の首相がよいというのではない。あれは、天皇規定の矛盾にまさる政治上の不安定要因であり、新憲法なくして自民党長期政権はありえなかった。しかし、危険な首相の登場確率は危険な天皇の登場確率の千倍、この危険を無力化する可能性は十万対一であろう。天皇の意見は悪用するものの責任であり、そういう連中が『こわいものしらず』にならないために天皇の存在が貴重である。〔・・・〕私は、皇室が政府に対して牽制、抑止、補完機能を果たし、存在そのものが国家の安定要因となり、そのもとで健全な意見表明の自由によって、日本国が諸国と共存し共栄することを願う。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」初出「文化会議」 1989年)

もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。幼児期には、親のやさしいよい時と不機嫌で辛く当たる時とを、同一の親と認識できず、「よい親」と「わるい親」とを別個の人物と認識することがある。これが成人になって意識の中に現れれば、「よい親」と「わるい親」との分裂となる。父親=陛下は通常意識世界の「よい陛下」と幻覚世界の「わるい陛下」とに分裂していたのである。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」1989年)

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた『外米』はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔・・・〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕でおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれにある。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)


※参照▶︎「中井久夫と天皇制



私がはじめて、無闇な天皇批判はまずいのではないか、とほのかに思ったのは、高校時代に森有正の次の文に行き当たったときだった。


25年前の第二次世界大戦が終るまで、日本の思想や道徳は、君臣、父子、兄弟、主従の関係を軸としていた。ことに全体の中心をなしていた天皇中心的国家観は、国家と国民の生活の全体を陰に陽に組織する原理のようなものとなっていた。人はそれを天皇制と呼び、戦前の諸悪の根源のように言うけれども、実際は、それはむしろ古来の日本人の「経験」の構造に由来するものではないであろうか。むしろそれがおもてにあらわれ、制度や道徳の形に結晶した結果として考えることの出来るものではないであろうか。


天皇のために死するということが〔・・・〕自己の自己に対する責任と倫理を包含することなく、君臣の関係がすでに自己の意志を越えて存在しており、その関係の責任の「根拠」が自己になくて、関係そのものに在る時、そしてそれが自発的に当然うけとられるべきものとして要求される時、そういう関係の歴史的、社会学的因果づけは一応捨象して、そのものとしての説明を日本人の「経験」の構造に帰せざるをえないであろう。〔・・・〕その「経験」は、個人をではなく、二人あるいは複数の人間を定義するものである。これは単に仮設ではなく、現実であったのであり、また、現実である。それが「経験」である以上、人間にとって根源的であり、それを外部から矯正することは出来ない。たとえば親子関係の事実上の存在がそのまま「経験」のこれ以上分析を許されぬ単位になっている、と言うこと、この複合関係から個人が決して脱出出来ないということ、これは思うよりは遥かに深刻なことである。(森有正『木々は光を浴びて』1972年)



森有正は今の若い人は知らないかもしれない。大岡昇平による加藤周一と森有正評を附記しておこう。


私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳(ママ)を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。

「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。


その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。

加藤周一著作集「月報」ーー大岡昇平「加藤さんの印象」


ほかにも彫刻家高田博厚の加藤周一と森有正の評参照