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2026年3月9日月曜日

米国によるイラン攻撃の「ボロメオの環」観点

 

ジジェクは米国のイラク侵攻時、こう記している。

イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。

The three ‘true’ reasons for the attack on Iraq (ideological belief in western democracy (…) ; the assertion of US hegemony in the New World Order: economic interests – oil) should be treated like a ‘parallax’: it is not that one is the ‘truth of the others; the ‘truth’ is, rather, the very shift of perspective between them. They relate to each other like the ISR triad…: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy

(ジジェク Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004


このジジェクの「エコノミー・イデオロギー・ヘゲモニー」は柄谷の「資本=ネーション=国家(Capital- Nation- State)」の変奏、《視野のシフト》とあるのも柄谷が『トランスクリティーク』で取り上げたカントのパララックス(視差)Parallaxenのパクリだが[参照]、今はそれはどうでもよろしい。



だいたい米国のネオコンの戦略は昔からこのパターンなんだよ。


柄谷行人はボロメオの環についてこう記しているがね、


フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。


そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P592001年)



で、ボロメオの環の最も基本的な読み方はこうだ。


ボロメオの環において、想像界の環(赤)は現実界の環(青)を覆っている。象徴界の環(緑)は想像界の環(赤)を覆っている。だが象徴界自体(緑)は現実界の環(青)に覆われている。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。


the borromean knot, in which the circle of the Imaginary covers the circle of the Real. The circle of the Symbolic covers the Imaginary one, but is itself covered by the circle of the Real drawing of the knot: This is one of those Lacanian topological figures which enable us to understand a number of clinical phenomena from a formal point of view.

(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 第二版、1999



ここでポール・バーハウが言っている「覆っている」とは「支配する、あるいは隠蔽する」だ。つまりイデオロギーはエコノミーを隠す。ヘゲモニーはイデオロギーを支配する。だがヘゲモニーはエコノミーに支配されている。

この観点を前回引用したマイケル・ハドソンの次の記述とともに読んでみることが出来る。


イラン攻撃の動機は、イランが原子爆弾を開発して国家主権を保護しようとする試みとは何の関係もない。根本的な問題は、米国がイランを含む諸国がドル覇権と米国の単極支配から離脱するのを先制的に阻止しようとしている点にある。


ネオコンは、イラン政府を打倒し、政権交代をもたらすこと(必ずしも世俗的な民主的政権交代ではなく、シリアを支配するISIS-アルカイダ・ワハビ派テロリストの延長線上の政権交代かもしれない)が米国の国家利益であると明言している。


イランが解体され、その構成国が属国寡頭制国家へと変貌すれば、米国外交は近東の石油をすべて支配できる。そして、石油支配は、米国石油会社が国際的に事業を展開してきた(米国国内の石油・ガス生産者としてだけでなく)おかげで、1世紀にわたり米国の国際経済力の礎となってきた。近東の石油を支配することで、サウジアラビアや他の OPEC 諸国が米国債や民間投資を大量に保有し、石油収入を米国経済に投資するというドル外交も可能になる。

The motivation for the attack on Iran has nothing to do with any attempt by Iran to protect its national sovereignty by developing an atom bomb. The basic problem is that the United States has taken the initiative in trying to pre-empt Iran and other countries from breaking away from dollar hegemony and U.S. unipolar control.

Here’s how the neocons spell out the U.S. national interest in overthrowing the Iranian government and bringing about a regime change – not necessarily a secular democratic regime change, but perhaps an extension of the ISIS-Al Qaida Wahabi terrorists who have taken over Syria.

With Iran broken up and its component parts turned into a set of client oligarchies, U.S. diplomacy can control all Near Eastern oil. And control of oil has been a cornerstone of U.S. international economic power for a century, thanks to U.S. oil companies operating internationally (not only as domestic U.S. producers of oil and gas). Control of Near Eastern oil also enables the dollar diplomacy that has seen Saudia Arabia and other OPEC countries invest their oil revenues into the U.S. economy by accumulating vast holdings of U.S. Treasury securities and private-sector investments.

(マイケル・ハドソン「なぜアメリカはイランと戦争をしているのか」 Why America is at War with Iran By  Michael Hudson, June 23, 2025


つまり原子爆弾の開発阻止というイデオロギーは石油というエコノミーを隠蔽しようとするがそんなものは嘘っぱちだ。そして米国のヘゲモニーは石油支配というエコノミーに突き動かされている、ということになる。つまりマイケル・ハドソン流イラン攻撃のボロメオの環だ。

さらにこれらが柄谷行人、ジジェク、マイケル・ハドソンという3人のマルキストの構造的見方だ(柄谷の言い方なら、ネーション(共同体)は相互扶助によって資本の欲動を隠蔽する。だが国家(政治的権力、あるいは略取と再分配)はネーションを支配している。そして国家は資本の欲動に支配されている、だ)。こういった見方がすべてというつもりはないが、基本はこれでいけるよ。あとはこのベースに立って横断的にトランスクリティークすることだな。

一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論にして経験論で立ち向かい、独断的経験論して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)

重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしに存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「第二部・第一章 移動と批判」2001年)



よりわかりやすい言い方ならこうだ。


◼️トランスクリティーク 移動しながらの批評の先に見いだしたもの:私の謎 柄谷行人回想録㉔2025.03.12

柄谷 トランスクリティークという言葉は、僕の造語です。クリティークは、批評ですね。トランスは、超越論的(transcendental)、横断的(transversal)から取りました。垂直方向と水平方向という、相反するものの間の移動と言ってもいい。


――移動ということでは、柄谷さんは、マルクスがドイツからフランス、イギリスと移動しながら思索を深めていたことに着目されていますね。


柄谷 大事なのは、空間的移動というよりも、思想的な移動です。カントは空間的にはまったくといっていいほど移動しなかったけど、思想的には移動していた。カントは、経験論と合理論の両方を批判しましたが、それらを超えるような地点に自分を置いてそうしたのではありません。それらの相反する立場を行き来しながらそうしたのです。カントは、両者を折衷・総合したのではなくて、合理論の立場から経験論を、経験論の立場から合理論を批判した。


《経験論は、人間の知識や認識は経験によって外部から得られるとする考え方。J・ロックやヒュームらが代表的な哲学者で、1718世紀にイギリスで発展した。合理論は、人間には経験に先立って備わっている概念や原理があり、それに基づいて認識が可能になるという考え方。デカルトやライプニッツなど、フランス、ドイツで盛んだった》

――視点を変えると、違うものが見えてくるということですか。


柄谷 視点を変える、という発想とは違います。自分の選択で、視点を変えるんじゃないんです。好むと好まざるとにかかわらず、人は不可避的に異なる思想体系、価値体系の重なり合いの内に置かれて分裂している、ということです。カントに、視差という概念があります。それは、合理論経験論、もしくは理性的なもの感性的なものといった異質なものの統合です。それは、ヘーゲル的な総合、つまりすべてを見通すような視点ではない。また、合理論にも経験論にもそれぞれの正しさがあるといったような、相対主義でもない。


――“視差というのは、非常に印象的な言葉です。本の中では、鏡と写真の例でわかりやすく説明されているので紹介してみます。私たちは鏡で自分の顔を都合のいいように見ているのだ、と柄谷さんは言います。だから、自分の顔は見慣れているようでも、写真を見て、「こんな顔してるかな」と思ったりする。あるいは、録音された自分の声を聞くと、なんだか変な感じがする。そこに、自分が考えている自分と、客観的には自分の顔はこう見える、声はこう聞こえるというショック、おぞましさのようなものがある。ここに視差がある、というわけです。

柄谷 大抵人は、物事を通念にしたがって見ているだけで、本当には見ていないんです。でも本来認識は、視差からくる危うさの上に成立している。人間の視覚も、そういう仕組みになっているらしいですね。右目と左目の位置が微妙に違うこと、つまり視差に基づいて、脳が対象物の奥行きを判断して、立体像を生み出すんだとか。目が、外界に存在する対象物をそのまま客観的に映し出す、というような単純な話ではないということですよね。認識にも同じことがいえます。


マルクスは、ドイツにいたときから、古典経済学や資本主義の批判をしていた。だけど、そのときにはドイツの状況しか知らなかった。イギリスに移住して、古典経済学では説明できないような経済恐慌を目の当たりにしたとき、マルクスは変わったんです。ドイツの現実でもイギリスの現実でもない、別の現実を見いだした。それは視差から生じたものだといえます。


――マルクスとカントにみられるような、移動から生じる視差を通じて批評するあり方を、トランスクリティークと名付けた、ということですね。



ここで柄谷の云う視差は、言うのは易しいが実践するのは難しいんだがね。人はどうしても信念の人になりがちだから。

ニーチェはカント的光学用語を使ってこう言ってるがね、

信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)



ジジェクはもとより柄谷だってときに《融通がきかない光学》に陥っていると感じることがあるからな▶︎「あまり自分勝手だよ、柄谷教祖の料理は

特に人は老いたら、知的に傑出した人でも眼鏡を掛け替えるのが難しくなるんだよ


めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕

われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山眞男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5




ボク自身、マルクスのめがねはなかなか外せないタイプだから注意はしてるんだが、なかなか巧くいかないよ。

マルクス主義のすぐれたところは、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにある。これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになった。

Die Stärke des Marxismus liegt offenbar nicht in seiner Auffassung der Geschichte und der darauf gegründeten Vorhersage der Zukunft, sondern in dem scharfsinnigen Nachweis des zwingenden Einflusses, den die ökonomischen Verhältnisse der Menschen auf ihre intellektuellen, ethischen und künstlerischen Einstellungen haben. Eine Reihe von Zusammenhängen und Abhängigkeiten wurden damit aufgedeckt, die bis dahin fast völlig verkannt worden waren.

しかしながら、 経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されると、われわれとしては、受け入れることができなくなる。Aber man kann nicht annehmen, daß die ökonomischen Motive die einzigen sind, die das Verhalten der Menschen in der Gesellschaft bestimmen. 〔・・・〕


そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクターを無視してよいわけがあろうかという点である。Man versteht überhaupt nicht, wie man psychologische Faktoren übergehen kann, wo es sich um die Reaktionen lebender Menschenwesen handelt(フロイト「続精神分析入門」第35講、1933年)


だから、例えば自らこう言っているミアシャイマーなどをいくらか軽視する傾向があるんだ。


◼️ミアシャイマー「ウクライナ、台湾、そして真の戦争の原因」2023128

Ukraine, Taiwan and The True Cause of War – John Mearsheimer  

in an interview with  John Anderson Dec 8, 2023

ミアシャイマー:まず、私の発言の前提として、経済学は私の得意分野ではないということを理解してほしい。得意分野は地政学です。だから、私が言うことは鵜呑みにしないでください。

I would just preface my remarks by saying you want to understand that economics is not my forte. Geopolitics is. So what I say should be taken with a grain of salt.


特にイスラエルロビーを強調し過ぎるミアシャイマーはその背後にある金融資本分析に弱過ぎる。ミアシャイマーでさえそうだから、経済音痴が著しい日本の国際政治学者なんて端から馬鹿してんだ。もちろん巷の「評論家」などはいっそうそうだが、アシカラズ。