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2026年4月18日土曜日

安全保障の専門家とやら……あいつらは安全保障じゃなくて、危険招来の専門家だよ

 

Armchair Analyst氏による実に正しい批判だな、《安全保障の専門家とやら……あいつらは安全保障じゃなくて、危険招来の専門家だよ。》


Dr. Fager氏による、より具体的な批判ーー、《彼らが専門家として機能しなかった理由は、彼らの想定がすべて米国の後方支援(パシリ)として評価されることのみを目的としていたからだ。/彼らは安全保障のプロではなく、特定の政治的物語を演じるための役者に過ぎなかった。/ウクライナは明日の日本という言葉で危機を煽りながら、実際に日本を明日のウクライナに追い込んでいるのは、他ならぬ彼らの提言を鵜呑みにした日本政府の選択だ。》




さらにーー《ロボトミー化されたエリート……日本の政界、財界、学界、そしてメディア界には、若い頃にスカウトされ、今やアメリカの意のままに動く売国エリートたちが蔓延している。/若手時代にアメリカの大学やシンクタンク、学術機関、あるいはメディアで訓練を受けた経歴を持つ者は、アメリカ的価値観に決して疑問を抱かないよう、政治的ロボトミー手術を受けたのだと考えて、まず間違いはない。》




ヤバイのは高市早苗だけではない、岸田文雄もそうだ(彼は留学経験はないにしろ小学校時代の3年間をニューヨークで過ごている)。





こう言っている池内恵も宇露紛争勃発初期には米国ネオリベイデオロギーに洗脳化された人物だったが[参照]。



教育は常に、シニフィアン(言語表象)を送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。

これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は〈他者〉のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この〈他者〉に陽性転移した条件の下に、この〈他者〉によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011)

コミュニケーションとしての言語の機能。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。

教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)