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これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ『別れのワルツ』) |
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人類の歴史の陰湿な皮肉の中で、これ以上に人間性の邪悪さと救いがたさを明らかにしたものはないだろう。つまり、ユダヤ人は恐るべき迫害の憂き目に遭った直後に、ナチスから塗炭の苦しみを受けた教訓を生かそうとはしないで、自分たちがユダヤ人として被害者になったのと同じような犯罪を、加害者として再び犯さないようにするのではなくて、今度は自ら新たな民族主義者になって、自分たちの父祖が住んでいた郷土に今アラブ人がいるという理由から、自分よりも弱い民族を犠牲にして迫害したことである。(アーノルド・トインビー『歴史の研究』ARNOLD J. Toynbee, A STUDY OF HISTORY, ABRIDGEMENT OF VOLUMES Ⅶ―Ⅹ、p177.) |
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ガザジェノサイドを機縁にピューリッツァー賞受賞ジャーナリストのクリス・ヘッジズを知ったのだが、戦争取材によって外傷性戦争神経症を抱えている彼のきわめて優れたところのひとつは、「人はみなナチスになり得る」と言ったことだ。
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◼️クリス・ヘッジズ「イスラエルのジェノサイドはホロコーストを裏切る」 Chris Hedges: Israel's Genocide Betrays the Holocaust, January 3, 2024 |
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我々は皆、ナチスになり得る。ほんの僅かなことでそうなる。 悪、我々自身の悪に対する絶え間ない警戒の中で、我々はガザで大量殺戮を行っている者たちのように、怪物になってしまう。 おそらく最も悲しいアイロニーは、かつてジェノサイドから保護される必要があった民族が、今やジェノサイドを犯しているということだ。 |
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We can all become Nazis. It takes very little. in eternal vigilance over evil, our evil, we become, like those carrying out the mass killing in Gaza, monsters. Perhaps the saddest irony is that a people once in need of protection from genocide now commit it. |
ここではまず、これも繰り返し掲げてきたニーチェをふたたび再掲しよう。
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◼️残酷あるいは拷問の祭 |
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残酷ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか[bis zu welchem Grade die Grausamkeit die große Festfreude der älteren Menschheit ausmacht, ja als Ingredienz fast jeder ihrer Freuden zugemischt ist]、他方また、彼らの残酷に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「無関心な悪意」»uninteressierte Bosheit«(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》die sympathia malevolens)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。〔・・・〕 |
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死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。Jedenfalls ist es noch nicht zu lange her, daß man sich fürstliche Hochzeiten und Volksfeste größten Stils ohne Hinrichtungen, Folterungen oder etwa ein Auto-dafé nicht zu denken wußte, insgleichen keinen vornehmen Haushalt ohne Wesen, an denen man unbedenklich seine Bosheit und grausame Neckerei auslas-sen konnte (ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年) |
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◼️残酷は人類の最も古い祭りの一つ |
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最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕 |
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「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい |
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◼️戦争の祭 |
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戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich] 人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。 |
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もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。 帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。 |
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人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上 477番、1878年) |
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で、ここでの問いは我々は戦争の代用物としての「残酷の享楽」やってるのではないか、ということだ、例えばツイッター(X)で? 人によれば殆ど毎日? ◼️戦争の代用物としての言葉と眼差しによる拷問 |
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人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。 nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年) |
少し前、永江一石氏のネトウヨ/パヨク区分が流通していたがね、
私が特に気に入ったのは、「仲間内での盛り上がり方」の項にある「愛国ごっこ/正義ごっこ」だ。後者のパヨクはネトサヨと呼んでもよいだろう。これまた柴田英里さんの6年前の秀逸な指摘がある。
このパヨク=ネトサヨの正義ごっこは、時に愛国ごっこをしているネトウヨよりも警戒しなくてはならないのではないか。排外主義に耽るネトウヨの多くは、心ひそかにいくらか疚しいところがある筈だが、パヨク=ネトサヨにはそんなものはひとかけらもないだろうから。
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『翼を持つ少女』の名高い指摘があるがね、 |
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「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(山本弘『翼を持つ少女』2014年) |
これは次の中井久夫の言い方をしてもよい。
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一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 ) |
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誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年) |
実際、正義ごっこのパヨクは、愛国ごっこのネトウヨよりも高いところに立って嘲罵してるだろうからな。
ネトウヨへの嘲笑や罵倒自体はやむえないと思うこともないではないが、最低限、つるんでそれをやらないことだよ。ツイッターの特性もあるのだろうが、殆どの場合、束=ファシズムになっているように見える。
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ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木亨『ドゥルーズ』「はじめに」2016年) |
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フロイトの集団心理学は、ヒトラー大躍進の序文である。人はみなこの種の虜になり、群衆[foule]と呼ばれるものが集団になっての捕獲[la prise en masse]、ゼリー状の捕獲になるのではないか? FREUD …la psychologie collective…préfaçant la grande explosion hitlérienne…pour que chacun entre dans cette sorte de fascination qui permet la prise en masse, la prise en gelée de ce qu'on appelle une foule ?(ラカン, S8, 28 Juin 1961) |
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原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年) |
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指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章) |
ここでは文脈上、「自我理想」を「正義」に置き換えて図式化しておこう。


