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以前にも何度か指摘してきたが、しかしドゥルーズ研究者はいまだどうして『差異と反復』「序章」の次の記述を飛ばすんだろうな。 |
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フロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。 Car lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un refoulement originaire, concernant d'abord des présentations pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年) |
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ドゥルーズは「反復の原理は原抑圧」と言っているのに、ここに焦点を当てた研究者を見たことがない。 |
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さらに第二章にはこうある。 |
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反復は、ひとつの現在からもうひとつへ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x). 〔・・・〕 そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる「原」抑圧[un refoulement dit « primaire »]と考えてしまってはいたのだが。Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
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フロイトの原抑圧は固着(欲動の固着)であり[参照]、ドゥルーズはそれをしっかり掴みつつこう書いている。 |
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固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。 Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
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トラウマとあるが、固着は常に《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)であり、さらに自動反復概念は、『制止、症状、不安』にある。 |
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欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着の契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである[Triebregung … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
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先のドゥルーズが「固着と退行」としているのもフロイトの記述通り。 |
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固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年) |
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退行、すなわち以前の発達段階への回帰[eine Regression, eine Rückkehr zu einer früheren Entwicklungsphase hervorrufen. ](フロイト『性理論』第3篇1905年) |
ーーフロイトにとって固着退行回帰反復はセット概念である。
この1968年時点で、ドゥルーズは感心するぐらいフロイトを読み込んでいる、フロイト研究者プロパよりずっと。
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晩年のラカンは原抑圧についてこう言った。 |
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私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
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穴とは現実界のトラウマを指し、欲動の機能である。 |
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現実界はトラウマの穴をなす[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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遡れば、セミネール11とさらにセミネール1にこうある。 |
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現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
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固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954) |
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現実界=トラウマ=同化不能=固着であり、同化不能=固着はフロイトのモノの定義である。 |
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同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
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固着されたモノ[die Dinge fixieren](フロイト「フリース宛書簡」 16. 3. 1896) |
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したがって、晩年のサントームセミネールでもこう言っている。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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トラウマ的固着=言説の法に同化不能なものが、フロイトの反復の鍵である。 |
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フロイトの反復は、同化不能の現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011) |
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ドゥルーズが『差異と反復』「序章」で示した反復の原理としての原抑圧はこの意味であるだろう。 そして繰り返せば、原抑圧は固着である。 |
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。 The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
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❖附記 なおニーチェはこう言っている。 |
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人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
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この自己固有の出来事を強度を持った出来事(自己身体の出来事)と捉えれば、トラウマである。 |
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出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年) |
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トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚の出来事である。〔・・・〕このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる。これは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。 Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen(…) Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
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この観点を取れば、次のラカンは先のニーチェと事実上等価である。 |
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現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
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同じ場処とは固着点である、ーー《フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、常に同じ場処に回帰することである。この理由で固着点に現実界の資格を与えうる[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, … qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel.]》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) 繰り返せば回帰とは反復である。 |
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[…ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) |
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「以前の状態への回帰が欲動の普遍的性質」とあるが、別の言い方をすれば、欲動の対象は固着である。 |
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欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
おそらく先に掲げたドゥルーズの潜在的対象(と原抑圧)をめぐる記述ーー《反復は、ひとつの現在からもうひとつへ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される[La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).] 》(『差異と反復』第2章、1968年)ーー、この《潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]》はラカンの対象aであるだろう、《対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ]》(Lacan, S10, 26 Juin 1963)
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しかしそれにしてもドゥルーズの知の駆り立てる力はスゴイよ、ひょとして兄に関わる強度を持った出来事へのトラウマ的固着、それを通した無意識のエスの反復強迫がどこかで影響してじゃないかな。 |
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1944年7月2日、レジスタンス運動に参戦していたドゥルーズの兄ジョルジュGeorgesは、ドイツ軍に捕らえられ、強制収容所に送られる道程で死んだ。… ジル・ドゥルーズは、親友ミシェル・トゥルニエに打ち明けた。トゥルニエ曰く、ドゥルーズは家族の生活を、彼の両親の態度の結果として拒絶した。《ジルは常に兄のジョルジュにコンプレクスを持っていた。彼の両親はジョルジュに「正真正銘の崇拝 véritable culte à l'enfant mort」を捧げた。そしてジルは兄だけを賛美する両親を許さなかった。彼は凡庸だと見なされた二流の子供、「ヒーローの弟 le frère du héros」に過ぎなかった。》(フランソワ・ドッスFrançois Dosse, Gilles Deleuze et Félix Guattari, biographie croisée,, 2007) |
蓮實は「許せます、ジルを?」と言っていたけど、少なくとも家族に関しては失われた時の回帰かもしれないよ。
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蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない? 浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。 蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。 浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。 蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。 浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。 |
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蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。 浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。 蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。 浅田)「偉大な哲学」である、と。 蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。 |
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浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。 ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventum tantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。 蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。 浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。 蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。 浅田)絶対にゴダールを取ります。 蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。 浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。 |
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蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。 浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。 蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意にルノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。 浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。 蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。 浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。 |
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(『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人) |
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フロイト(とプルースト)の仮説…精神分析、つまり失われた時を求める探求は、文学のように、際限のないものになるほかはない。それも、歴史という名に値する歴史として、つまり歴史主義ではなくアムネーシスであるような歴史としてなのである。それは、忘却というものが記憶の欠落ではなく、つねに「現前している」が決して今-ここにはないあの記憶され得ぬものであり、習慣的な意識の時間に合っては、つねに早すぎると遅すぎるのあいだで引き裂かれるということを忘れはしない。心的装置にもたらされはするものの、感じずにいる第一撃の早すぎる時機と、何かが感じ取られ、耐えがたい思いのする第二撃の遅すぎる時機のあいだで、そこにあるのは、戦わずして傷つけられた魂ということなのである。 |
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L'hypothèse freudienne (et proustienne)… La psychanalyse, la recherche du temps perdu, ne peut être, comme la littérature, qu'interminable. Et comme la véritable histoire, celle qui n'est pas historicisme, mais anamnèse. Qui n'oublie pas que l'oubli n'est pas une défaillance de la mémoire, mais l'immémorial toujours ‘présent', jamais ici-maintenant, toujours écartelé dans le temps de conscience, chronique, entre un trop tôt et un trop tard. – le trop tôt d'un premier coup porté à l'appareil qu'il ne ressent pas. , et le trop tard d'un deuxième coup où se fait sentir quelque chose d'intolérable. Une âme a frappé sans porter un coup. |
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(ジャン・リオタール『ハイデガーと「ユダヤ人」』Jean-François Lyotard, Heidegger et les Juifs, 1988) |
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ま、いずれにせよドゥルーズは時に投げ出すように書いてる場合があるんじゃないか、読者に背を向けて。 |
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結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできない。出来事に基づいて接近していないものに対しては、人は聞く耳をもたない。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような出来事ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい出来事を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。 Zuletzt kann Niemand aus den Dingen, die Bücher eingerechnet, mehr heraushören, als er bereits weiss. Wofür man vom Erlebnisse her keinen Zugang hat, dafür hat man kein Ohr. Denken wir uns nun einen äussersten Fall, dass ein Buch von lauter Erlebnissen redet, die gänzlich ausserhalb der Möglichkeit einer häufigen oder auch nur seltneren Erfahrung liegen, – dass es die erste Sprache für eine neue Reihe von Erfahrungen ist. In diesem Falle wird einfach Nichts gehört, mit der akustischen Täuschung, dass wo Nichts gehört wird, auch Nichts da ist – . |
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(ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
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最後にイヤミを言えば、精神の中流階級には何もきこえないかもよ、頑張って読んでも。 |
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学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年) |
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何を読むにしてもーー上流階級はムリだとしてもーーせめて下流階級を目指さないとな。 |
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人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
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人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則……(プルースト「ゲルマントのほう」) |
ーー《天上の神々を説き伏せられぬのなら、冥界を動かさん Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo.》(ウェルギリウス『アエネーイス』)
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そういえば、ブロイラーは冥界分析に弱かった、とフロイトは言ってたな。 |
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ブロイラーの患者において本当に起こったことを、私は後になって推測した。彼と私の関係が絶たれたはるかに後である。私は突然思い出したのだった、ブロイラーがかつて、私たちが共同研究を始める以前に別の文脈のなかで私に言ったメッセージを。彼は二度とそれを繰り返さなかった。 Was bei Breuers Patientin wirklich vorfiel, war ich imstande, später lange nach unserem Bruch zu erraten, als mir plötzlich eine Mitteilung von Breuer einfiel, die er mir einmal vor der Zeit unserer gemeinsamen Arbeit in anderem Zusammenhang gemacht und nie mehr wiederholt hatte. |
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ある日の夕方、彼女(アンナ・O)のすべての症状がおさまった時、ブロイラーは患者にふたたび呼ばれた。彼が見出したのは、混乱して、下腹部の痙攣で身悶えする彼女だった。どうしたのかと訊ねると、彼女は答えた、「ブロイヤー先生の子供が生まれるのですわ[Jetzt kommt das Kind, das ich von Dr. B. habe]」。この瞬間、彼は手に鍵を握っていた、「母への扉」Weg zu den Mütternを開きえた鍵である。だが彼はその鍵を落ちるに任せた。 Am Abend des Tages nachdem alle ihre Symptome bewältigt waren, wurde er wieder zu ihr gerufen, fand sie verworren, sich in Unterleibskrämpfen windend. Auf die Frage, was mit ihr sei, gab sie zur Antwort: Jetzt kommt das Kind, das ich von Dr. B. habe. In diesem Moment hatte er den Schlüssel in der Hand, der den Weg zu den Müttern geöffnet hätte, aber er ließ ihn fallen. |
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ブロイラーのすべての偉大な知的天賦には、その特性においてファウスト的なものは何もなかった。月並みな恐怖に囚われて、彼は逃げ出し、患者を投げ捨て同僚に委ねた。後の数ヶ月のあいだ、アンナ・Oは、サナトリウムにて健康を取り戻そうともがき苦しんだ。 Er hatte bei all seinen großen Geistesgaben nichts Faustisches an sich. In konventionellem Entsetzen ergriff er die Flucht, und überließ die Kranke einem Kollegen. Sie kämpfte noch monatelang in einem Sanatorium um ihre Herstellung.(フロイト書簡ーーシュテファン・ツヴァイク宛、1932年6月2日) |
冥界ってのはそんな大袈裟なもんじゃなく、まずはこういうのだよ、▶︎「コーヒーの豆は遍在していながらドリップ・フィルターが近くに見あたらぬと、不意に親しい女性のお尻が見えてきたりするのはなぜか」(蓮實重彦「些事にこだわり」2023年11月17日 )
ところで蓮實重彥は伊丹十三の作品を過剰に過小評価したのはなぜなんだろ?後の商業的映画だけでなく最初期の『お葬式』も嫌ったのだが。
まさか《見失われたドリップ・フィルターを探し当てたのとほぼ同時に、可愛らしい若い女性のお尻の割れ目がふと見えてきたりするという観念連合の思いもかけぬ微妙さ》のせいでもなかろうが・・・
いやシツレイしました。おバカなことを記してしまって。でもこれらのもちょっとした固着の反復かもシレマセン。
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分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06) |
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※追記 伊丹十三は蓮實重彦に惚れ込んで映画を作ったのに酷評された[参照]。 |
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『お葬式』はちっとも面白くない。それで、試写室の出口に伊丹さんが来ていて「どうですか」って言うから、正直に「最低です」と言って別れました。たぶん、それが彼と言葉を交わした最後だと思う。その後も、彼の作品は全部見てますよ。けれど、ひとつとしていい場面の撮れない人だったと思う。キャメラが助けてないし、あんなにいいショットがない映画って珍しいと思います。それから、どうも劇の構造が全部面白くない。伊丹父子、万作と十三のふたりは、作品の質とは無縁に評価されている点で同じだと思います。(蓮實重彦『97年の映画を語る』(「映画芸術」第384号)より) |




