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2026年7月27日月曜日

失われた時の記憶


 ▶︎動画

いやあ、こういうのを見ると失われた時って感じがするな、海外住まいの身にとっては。




私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕

幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST1977年)



溝口健二までやってきたよ、向こうから。


溝口健二『祇園姉妹』1936年


ボクは比較的京都住まいが長くてね。


溝口健二『祇園囃子』1953年


祇園花見小路のチーママにイカれて?海外住まいの身になっちまったんだよ



蚊居肢セットもやってきたな・・・


痛み[la douleur]はつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦痛[la souffrance]だけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966

私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)


スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)



🎵

Schumann: Davidsbündlertänze, Op. 6 - 17. 遠くからのように[Wie aus der Ferne(Zhu Xiao-Mei)



……………


痛みと悦は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887

痛みのなかの悦は、マゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった[In den Griechen…IIch sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 1926年)


欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe …"der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

この世界は、力への意志であり、それ以外の何ものでもない! そしてあなた自身もまた力への意志であり、それ以外の何ものでもない![- Diese Welt ist der Wille zur Macht - und nichts außerdem! Und auch ihr selber seid dieser Wille zur Macht - und nichts außerdem!  ](ニーチェ「力への意志」草稿IN Ende 1886- Frühjahr 1887: KSA 11/610-611 (WM 1067)