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2026年7月27日月曜日

ラカニアンやドゥルージアンへのすすめ


いまラカニアンやドゥルージアンだったら、家父長制打倒、つまりアンチオイディプスの帰結がどうなったのかぐらいはっきりさせて、一般公衆に熟知させといたほうがいいよ。特にフェミニストだけでなく、インテリだって家父長制打倒はいまだ正しいものだったと思い込んでいるのがほとんどだから。

こういうのを読むと呆然とするからな。

わたしは目を瞠った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」 朝日新聞 2018年5月23日)

僕も今回、父小説を書きましたが、父性はとりわけ変化が求められているものだと思います。現代にあっても家父長や父権の亡霊は社会に残存していて、それが女性蔑視やLGBTQ差別の源泉になっている。この傾向は、もはや保守とすら呼べず、差別主義、排他主義でしかない。小金持ちの親父がネトウヨ化し、反知性主義に向かい、頑迷に迷信に縋り付いている醜態を見るにつけ、あんな奴らと一緒くたにされてたまるかと思います。そろそろ誰かが家父長の亡霊を退治するゴーストバスターにならなければならない。そんな思いがこの『時々、慈父になる。』執筆の動機にありました。(島田雅彦×金原ひとみ「『私』を更新し続けるために書くということ」2023・5・18


………………

ラカンは学園紛争を契機にこう言ってる。


父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père1968年)

エディプスの失墜[ déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971


このエディプス的父の失墜の文脈ーーラカンの「父の名」とはこのエディプス的父のことであるーーのなかで、《レイシズム勃興の予言[prophétiser la montée du racisme]》(Lacan, AE534, 1973)もした。


そしてラカンは父の名は迂回すべきだが、父の名の使用は是非とも必要だと言うようになる。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976


この文脈のなかでジャック=アラン・ミレールの次の発言がある。

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021



ミレールはラカンから引き継いだ最初期のセミネールで既にオイディプスの彼岸に自由があるというのは間違いだと言っているがね。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズとガタリの書における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


1980年代にミレールの講義を受講していたジジェクなんかは『アンチ・オイディプス』は最悪の書だとまで言っている。


ほぼ間違いなくドゥルーズの最悪の書『アンチ・オイディプス』は、単純化された「平面的」解決を通して、袋小路との十全な遭遇から逃げ出した結果ではないだろうか?Is Anti-Oedipus, arguably Deleuze's worst book, not the result of escaping the full confrontation of a deadlock via a simplified "flat" solution…? (Zizek,Organs without Bodies, 2004)




ジジェクにも問題はあるんだが、とはいえ次の記述はアンチオイディプス後の世界を描写するのにきわめて秀逸だよ。


抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。


「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。


この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。


「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。


馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。

Instead of bringing freedom, the fall of the oppressive authority thus gives rise to new and more severe prohibitions. How are we to account for this paradox? Think of the situation known to most of us from our youth: the unfortunate child who, on Sunday afternoon, has to visit his grandmother instead of being allowed to play with friends. The old-fashioned authoritarian father's message to the reluctant boy would have been: “I don't care how you feel. Just do your duty, go to grandmother and behave there properly!” 


In this case, the child's predicament is not bad at all: although forced to do something he clearly doesn't want to, he will retain his inner freedom and the ability to (later) rebel against the paternal authority. Much more tricky would have been the message of a “postmodern” non-authoritarian father: “You know how much your grandmother loves you! But, nonetheless, I do not want to force you to visit her – go there only if you really want to!” 


Every child who is not stupid (and as a rule they are definitely not stupid) will immediately recognize the trap of this permissive attitude: beneath the appearance of a free choice there is an even more oppressive demand than the one formulated by the traditional authoritarian father, namely an implicit injunction not only to visit the grandmother, but to do it voluntarily, out of the child's own free will. Such a false free choice is the obscene superego injunction: it deprives the child even of his inner freedom, ordering him not only what to do, but what to want to do.

 (ジジェク『ラカンはこう読め!』Zizek, How to Read Lacan,2006)



わかるだろ、これが家父長制失墜後の「父なき寛容な世界」の実態のひとつだよ。


(猥雑な超自我の命令とあるが、これは前エディプス的超自我のことであり、エディプス的超自我を打倒しちまったらこの超自我が赤裸々に顕われるだけだよ[参照]。)


で日本のラカニアンやドゥルージアンはいまだこういう事態に「目を閉じ耳を塞ぎ」いったい何やってんだろ?


しかしドゥルーズ学者は50年経ってもいまだ気づいてないのかね、➤「ドゥルーズの決定的誤謬」を。