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◼️「Re-membering Jacques Derrida(リ・メンバリング・ジャック・デリダ)」デリダ追悼鼎談浅田彰、柄谷行人、鵜飼哲『新潮』2005年2月号 |
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浅田彰:(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。 しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が 男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。〔・・・〕 もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それらはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性という土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です。 |
この浅田彰=デリダの言っていることを図式化すれば、こうなる。
上部の二項対立は、底部の土俵の側にある項を右側とした。
これは現代ラカン派観点からは実際にこの移行が起こっている(デリダのいう意味とはいささか異なり、ラカニアンにとっては生物学的男女とはあまり関係がないが)。
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エリック・ロランーー仏主流ラカン派であるミレール派(フロイト大義派)のナンバーツーはこう言っている。 |
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原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015) |
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ーーもちろん《ファルスは男を代替する[Φ, …substitutive du mâle]》(Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
ここでは男性原理と女性原理の話には深入りせず、ーーいや誤解を恐れず少しだけ言っておけば、ファルスがなくなった世界は象徴界から法なき現実界への移行である。
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言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage. (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
ま、つまりはトランプとか高市とかがリーダーをやる世界である・・・いやシツレイ!《首相、国会の反省点なし 「がむしゃらに頑張った」》(2026/07/27)という具合にガムシャラに頑張りつつタコるのが女性原理の世界である・・・ヨーロッパのリーダーたちはタコりもせずロシアフォビアに突き動かされ自殺行為に走り続けている、これが女性原理の世界である。なぜか欧州には生物学的女性が多いのだがね、幸運な時代は終わったのである。
「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」C'est une chance énorme que les guerres aient été faites par les hommes. Si les femmes avaient fait la guerre, elles auraient été si conséquentes dans leur cruauté qu'il ne resterait aucun être humain sur la planète.(クンデラ『不滅』Milan Kundera, L'Immortalité,1990) | |||||||
ーーいやあフロイトってヒドイこと言ってんな。解剖学的女性のみなさん、こんなことは絶対アリマセン。解剖学的性別の彼岸にある「法なき女性原理」がワルイだけです。そこには母なるオルギアがあるのです、《母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)》(中井久夫「母子の時間、父子の時間」摘要[参照]、2003年『時のしずく』所収) ひとつだけフロイトを擁護しておけば、彼は文明は偽善だと言っている。人間の根にある欲動的生に対する偽善である[参照]。つまり女性が欲動昇華能力が低いというのは、偽善能力が弱いということである。他方、男は偽善能力が女に比べて強いのである。オワカリダロウカ?
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……………
さて本題として、もうひとつ浅田彰の話を掲げる。
柄谷行人との対談での話であり、ここでは柄谷の発言はカットしたがそれを含めては[参照]。
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◼️柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」1993年6月『SAPIO』(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収) |
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浅田 旧社会主義圏が崩壊し、社会主義の理念もそれに対する批判も意味を失うなかで、資本主義の現実だけが世界を覆い尽くそうとしている。「歴史の終わり」というのは、むしろそういう理念の不在を指しているのだとも言えるでしょう。〔・・・〕 浅田 統整的なものであるはずの理念を構成的なものと考えて、それをむりやり実現しようとしたあげく、そのような現実が崩壊すると、理念も崩壊したかのように考えてしまう。カント的に言えば、それは誤りなんですね。〔・・・〕 浅田 共産主義という理念がスターリン主義的にドグマ化されたあげく崩壊し、他方、自由主義が勝利したかに見えて、しかしそのとたん、自由主義的原理がすべての矛盾の責任を負わされることになり、それに対していま非常に反動的な方向に向かっていると思う。各々の国や共同体が、内部では民主主義的に社会福祉なり何なりをやるけれども、外部に対しては排外的に動く。それを開くものはある種の理念しかないということを思い出さないといけない。〔・・・〕 |
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浅田 とくに、日本の場合、非常に問題だと思うのは、理念はタテマエにすぎず、恥ずかしくて人には言えないはずのホンネを正直に共有することで、民主主義的な、いや、それ以前の共同体をつくってきたということです。だから、そもそも自由主義にせよ共産主義にせよ、そういう理念を軽視する面があったところへ、それも壊滅したのだから、もうみんなホンネでいこう、そこで居直ったほうが勝ちだ、という空気が非常に強まったと思うんですね。もちろん、旧左翼の現実離れした理想主義のタテマエ論は批判すべきものだけれども、それがあまりにもくだらないがゆえに、右翼が現実主義的と称するホンネを唱えると、そちらのほうが多少とも魅力的に見えてしまう。新左翼だったはずが右翼になっていた旧全共闘世代が、だいたいそういうパターンでやっているわけでしょう。しかし、今はむしろ新しい理念が求められているのであって、崩壊した旧左翼を批判しても死馬に鞭打つようなものだし、自己満足にひたる大衆のホンネを肯定することにしかならない。実に不毛な状況ではありますね。 しかも、そういうホンネ主義みたいなものあらゆる理念がついえ去ったのであってみれば、もうホンネに居直るしかないという気分は、日本のみならず世界中で今いちばん支配的なイデオロギーになっていると思う。ほんとうは共産主義がスターリン主義的に形骸化した時期からそうだったのだけれど、けれども、それが旧ソ連崩壊で露骨に目に見えるようになってしまった。旧共産圏は完全にそうなってしまっているし、旧西側も同じような状況になっている。こういうシニカルな居直りこそが現代の支配的なイデオロギーであって、これを批判できるのは、ある種の理念しかないでしょう。〔・・・〕 |
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浅田 とくに日本の文脈で言うと、事実上、スターリン主義批判さえやっていればよかった時期があった。原理的にはそんなくだらないものを批判しても仕方がないとはいえ、少なくともそれが一定の力をもっていたときには、その批判にも多少は意味があったかもしれない。ところが、いまやそれも崩壊してしまった。となると、大衆は豊かになってみんな中流だと思っているからそれでいいではないかという現状肯定以外に何も残らない。これが現在のイデオロギー状況ですね。おそろしいほどの貧困だけれども・・・。 〔・・・〕 浅田 理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある......。〔・・・〕 浅田 むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られて強力に再構築されていると思いますね。〔・・・〕 |
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浅田 日本社会はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。〔・・・〕 浅田 理念に基づく闘争としての歴史が終わったのだとすればそれでもいいかもしれないけれど、幸か不幸か、歴史は終わるどころか再開されたと言ったほうがよく、現実に理念や言葉をめぐる世界史のゲームがどんどん展開されている。にもかかわらず、日本だけが、すべての理念がついえ去ったあとの、閉じたホンネの自己肯定に終始しているとすれば、歴史から取り残されるし、実際そうなりつつあると思います。何しろ戦後の四五年間、言葉らしい言葉をしゃべらずにきたので、なかなか急には無理かもしれないけれど、それなしでは済まないという意識はもちたいと思いますね。 |
《もうホンネに居直るしかないという気分は、日本のみならず世界中で今いちばん支配的なイデオロギーになっていると思う》とあるが、ここで先程の図を使ってみよう。
どうだろう、日本だけでなく世界的にこうなっているのではないかね。
で、経済的に言えばホンネは市場原理主義、つまり新自由主義だよ。
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今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年) |
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「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年) |
タテマエ派として新自由主義批判すると、インテリっぽい連中からでさえ「オマエさんはボケサヨクだ」と罵倒される世界だからな。主人はマネーの時代だよ。➤主人はマネー(古井由吉とラカン)
もうひとり、ラカン派のポール・バーハウの観点も附記しておこう。
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それほど昔のことではない、支配的ナラティヴは少なくとも四種類の言説のあいだの相互作用を基盤としていたのは。それは、政治的言説・宗教的言説・経済的言説・文化的言説であり、その中でも政治的言説と宗教的言説の相が最も重要だった。現在、これらは殆ど消滅してしまった。政治家はお笑い芸人のネタである。宗教は性的虐待や自爆テロのイメージを呼び起こす。文化に関しては、人はみな芸術家となった。唯一残っている支配的言説は経済的言説である。われわれは新自由主義社会に生きている。そこでは全世界がひとつの大きな市場であり、すべてが生産物となる。さらにこの社会はいわゆる実力主義に結びついている。人はみな自分の成功と失敗に責任がある。独力で出世するという神話。あなたが成功したら自分自身に感謝し、失敗したら自分自身を責める。そして最も重要な規範は、利益・マネーである。何をするにもマネーをもたらさねばならない。これが新自由主義社会のメッセージである。 |
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Not so long ago, the dominant narrative was based on the interplay between at least four discourses: the political, the religious, the economic and the cultural, in which the political and the religious aspects were the most important. Today, they have all but disappeared. Politicians are fodder for stand-up comedians, religion calls up images of sexual abuse or suicide terrorism, and as for culture, everybody is now an artist. There is only one dominant discourse still standing, namely the economic. We live in a neoliberal society in which the whole world is one big market and everything has become a product. Furthermore, this is linked to a so-called meritocracy in which everyone is held responsible for his or her own success or failure – the myth of the self-made man. If you make it, you have yourself to thank; if you fail you have only yourself to blame. And the most important criterion is profit, money. Whatever you do must bring in the cash; that is the message. |
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(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Higher education in times of neoliberalism, November 2015) |
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私のテーゼは、ほとんどの大学は新自由主義的言説の餌食になっているということだ。これは大学にとっても社会にとっても悪である。大学にとって悪なのは、創造性と批評精神を崩壊させるから。社会にとって悪なのは、学生に新自由主義のアイデンティティを書き込むから。 |
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It is my thesis that most universities have fallen prey to the neoliberal discourse as well, and that this is bad both for the universities and for society. It is bad for the university because it destroys creativity and critical thinking. It is bad for society because it endorses a neoliberal identity in students. 〔・・・〕 |
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より高度な教育にとっての機関の現代的使命言説は「生産性」「競争性」「革新」「成長」「アウトプット資金調達」「コアビジネス」「投資」「ベンチマーキング」等々である。これらの中いくつかの表現はかつての時代の、例えば「多様性と尊敬の育成」、「精神の修養」等を指し示しているかに見える。だが欺かれてはならない。これは単に粉飾に過ぎない。新しい言説の核心は経済である。 |
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The contemporary mission statements of institutions for higher education are crammed with expressions such as ‘productivity', ‘competitiveness', ‘innovation', ‘growth', ‘output financing', ‘core business', ‘stakeholders', ‘bench marking' etcetera. Some expressions in these mission statements refer to former times – e.g. ‘fostering diversity and respect', and ‘cultivating the mind' – but don't let that mislead you, this is just window dressing. The core of the new narrative is economic. 〔・・・〕 |
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長いあいだ、大学は自身の小宇宙のなかの静的な社会だった。〔・・・〕しかし、状況は劇的に変貌した。大学人は不可視の行政機関の音楽に踊ることを余儀なくされている。 |
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For a long time, universities were static societies in their own microcosm (…) however, this situation changed dramatically, …they are compelled to dance to the music of an invisible administration. |
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(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities, 2013) |
で、私はこう記して何がいいたいんだろうか。ーーああ、理念なき似非知識人が跳梁跋扈する世界になっちまった、とんでも女性原理の時代だぜ・・・なんてことを言うつもりは毛ほどもアリマセン
私がしたかったのは女の金玉磨きと玉あ食うの話である。
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金剛石も磨かずば 珠の光は添はざらん 人も学びて後にこそ まことの徳は現るれ これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。 そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に 「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」 と訊ねた。すると父は、 「なによ馬鹿を言うだ」 と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。 こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。 |
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次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年) |


