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2026年8月28日金曜日

毎年無数に孵化するハエのような、毎日出版される凡人の駄作を、今日印刷された、できたてのほやほやだからというだけの理由で読む読者の愚かさと勘違いぶりは、信じがたい

 

秋山英夫「愛と悩み―ニーチェの言葉」現代教養文庫(1960年)という小さな本がある。私が手に入れたのは初版から15年ほど経った高校時代で、第40版となっており当時はよく読まれたのだろう。本文は、ニーチェの言葉が何の注釈もなしで列挙されていてとても役に立ちひどく好んだ書である。今は背表紙が取れてしまい分解寸前だが、長く枕頭の書だった。


次のような章が立てられており、夜眠る前にいくつかの章を読む習慣があった。


第一部 生きるために

1 幸福に必要なもの / 2 退屈への勇気 / 3 精神の三つの変化 / 4 本来の君自身となれ / 5 脱皮できない蛇は滅びる / 6 読書について / 7 恋愛と結婚について / 8 子供たちの国を愛せ / 9 偉大とは方向をあたえることだ / 10 未来の人間性 / 11 哲学者とは? / 12 第七の孤独から / 13 苦悩から愛へ / 14 私は人間ではない、ダイナマイトだ


第二部 考えるために

1 知られない神に / 2 人間は深淵にかけわたされた一条の綱である / 3 生活の収穫は生活 / 4 歴史の見方について / 5 ニヒリズム、あるいは現代史 / 6 キリストとキリスト教 / 7 善人はつねに終末の発端である / 8 芸術に対するわれわれの感謝 / 9 この人をみよ


私のニーチェ好きは疑いもなくこの書から始まっている。

ここではーーちょっとした意図があると言ってもよいがーー、第一部「6 読書について」を全文引用する。



私は読書する閑人をにくむ。

もう一世紀、読者であったならば精神そのものが悪臭を放つであろう。

猫も杓子も読書していいということは、長年月の間には、書くことだけでなく、考えることをも台なしにする。


(ツァラⅠ 読み書き)


要するに本をただ「めくっている」にすぎない学者は、ついには自分でものを考える能力をまったく失ってしまう。めくらない時には、考えていない始末なのだ。


考えるということは、学者の場合、一つの刺激(読みとった思想)に答えているということで結局、彼はただ反応しているだけなのだ。学者は、すでに考えられたものを背定したり否定したり、つまりその批評に全力を使いはたすーー彼自身はもはや考えないのだ・・・


学者の場合、自衛本能が衰弱している。もしそうでなかったら、彼は書物に抵抗するはずだ。


学者は一個のデカダンなのだ。ーー彼らは、火花――「思想」を発するには、人にすってもらわねばならないただのマッチにすぎなくなっている。


早朝、夜の明けがた、すべてがすがすがしく、自分の力も曙光の中にあるのに、本なんか読むことーーそれを私は罪悪と呼ぶ! 


(この人・怜悧 8節)


他人の自我にたえず耳を借さねばならぬこと――それこそ実に読書ということなのだ!


(この人・人間的について 4節)


私の場合、すべての読書は私の息ぬきのひとつである。つまり、私を私から解放するもの、私をして他人の学問やたましいの中で散歩させるものーー私がもはや真剣には取らぬことのひとつなのだ。読書はまさに私を私の真剣さから休養させるものなのだ。仕事に没頭している時には、私のそばには一冊の書物も見られない。誰かが自分の近くで話したり、あるいは考えたりすることをさせまいと、私は用心するのだ。そして、それこそ読むということにほかなるまい……


一種の自己籠城は、精神的懐胎の第一の本能的策略に属する。私は他人の思想がひそかに城壁を乗りこすことを許すであろうか。そして、それこそ読むということにほかなるまい……


労作と多産の時に続いて休養の時がくる。さあ、やってこい、おまえら楽しい、才気あふれる書物どもよ、おまえら遠ざけられていた書物どもよ!


(この人・怜悧 3節)


読むことを技術として習練するためには、あることが何よりも必要であるが、今日ではこれが一番忘れられているーー反芻することだ。ーーだから、私の著作が読まれるようになるには、まだ年月を要するわけだ。このためには、読者は牛になってもらわなくてはならぬ、ともかく「近代人」であっては困るのだ。


(系譜・序 8節)


文献学は、何をおいてもまず次の一事を要求する技だーーすなわち、廻り道をし、時間をかけ、落着き、ゆっくりやること。しかもそのためにこそ、これは今日これまでになく必要な技なのだ。「仕事」の時代、すなわち躁急の時代、何もかもすぐ「片付け」てしまおうとする、ぶしつけな、汗まみれの性急な時代のさなかで。


文献学はそんなにわけなく物を片づけない。それはよく読むことを教える。すなわち、ゆっくりと、深く、前もうしろも慎重に見まわして、底意をもって、 扉を開け放しにしたままで(疑問は疑問として残す)、きめのこまかい指と眼では読むことを……


最悪の読者――最悪の読者というのは、掠奪兵みたいなやり口の連中だ。彼らは自分の使えるものをいくつかとり出し、他のものはよごし、かき乱し、全体を罵倒する。


(人間的下I  137番)


引用上の注意ーー若い著者というものは、よい表現なり、よい思想はただ同じようなものの間にあってこそ引き立つものであり、すぐれた引用は読者に、「いいか、おれは宝石だぞ、そしておれのまわりにいる奴は鉛だ、蒼白い、つまらない鉛だ!」と叫ぶものだから、頁全体、いや本全体をめちゃくちゃにしてしまうことがあるということを知らない。


どんな言葉もどんな思想も、それぞれただ自分の仲間の中でしか生きようとしないものだ。これが選ばれた文体のモラルである。


(人間的下Ⅱ 111番)


偉大な様式ーー偉大な様式は、美が怪物に対して勝利をおさめるときに生ずる。


(人間的下Ⅱ 96番)


人は黙っていてはならない場合にだけ語るべきだ。そして、自分の克服してきたことがらだけを語るべきだ、 他はいっさい饒舌、しまりのなさにすぎない。


 (人間的下・序 1節)


われわれが言いあらわすべき言葉を持ち合せているようなものは、それはすでにわれわれが内面的に脱け出してしまっていることなのだ。すべて語るということのなかには、多少の軽蔑がふくまれている。思うに、言葉というものは、平均的なもの、中ぐらいのもの、話好きなもののために案出されたものだ。話す人は言葉ですでに自分を通俗化している。


(偶像・遊撃26節)


人は自分の認識を他人に伝えると、もはやその認識を前ほどには愛しなくなる。


(彼岸 160番)


自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる。


 (彼岸 169番)


ひとがものを書く場合、分ってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分ってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にはならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分ってもらいたくなかったのだ。


すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。 文体のすべての精緻な法則はそこに起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。


(知識 381番)


最後の寡黙ーーある人々は宝物の発掘者と同じような目に会う。彼らは偶然、他人のたましいにかくされていた事物を発見して、それについて往々背負いきれないような知識を得るのだ。


事情によっては生きている者や死んだ者のことをあまりよく知りぬいて、その内面の秘密に通ずるので、彼らのことを他の人に話すのが辛くなる。ちょっと一言口をきいても、軽率になりはしないかと気になるのだ。――私は最も賢明な歴史家の突然の沈黙を想像することができる。


(曙光 457番)



これらを読んでいると実に愉快になる。


いくつかの部分はニーチェの師匠のひとり、ショーペンハウアーも同様のことを言っているのを後年知った。


ショーペンハウアーの『読書について』は手元にないのだが、先ほどネット上でいくつか拾ったのでこれも併せて掲げる。



多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。(ショーペンハウエル「自分の頭で考える」)

学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。(「自分の頭で考える」)

読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。おまけに多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うと、いかにひどい目にあうか教えてくれるだけだ。けれども創造的精神に導かれる者、すなわちみずから自発的に正しく考える者は、正しき道を見出す羅針盤をもっている。だから読書は、自分の思索の泉がこんこんと湧き出てこない場合のみ行うべきで、これはきわめてすぐれた頭脳の持ち主にも、しばしば見受けられる。これに対して根源的な力となる自分の思想を追い払って本を手にするのは、神聖なる精神への冒瀆にひとしい。そういう人は広々した大自然から逃げ出して、植物標本に見入ったり、銅版画の美しい風景をながめたりする人に似ている。(「自分の頭で考える」)

本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる。これは、一分のすきもなく完璧な体系とまではいかなくても理路整然たる全体像を展開させようとする、自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、ちがう精神から発し、ちがう体系に属し、ちがう色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合してひとつにまとまってゆくことはなく、むしろ頭の中にバベルの塔のような言葉の混乱をそっと引き起こすからだ。他人の考えがぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。


この状態は、多くの学者に見受けられる。そのため、良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する。


まさしくこれを学問の世界で思想家も行っている。ただし、もっと大規模だ。つまり思想家はたくさん知識が必要なので、たくさん読まねばならないが、精神がはなはだ強靱なので、そのすべてを克服し、吸収し、自分の思想体系に同化させ、有機的に関連づけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。思想家自身の考えは、オルガンの根音となる低音のように、つねに全体を支配し、決して異質な音にかき消されたりしない。これに対して、単なる博覧強記が取り柄の場合には、すべての音色がいわば音楽の切れ端のように迷走し、基音がもはやまったく聞き取れない。(「自分の頭で考える」)




特に次の箇所はいいな、


無数の悪書は、この世界に生い茂る雑草ようなもので、小麦から養分を奪い、小麦を枯らしてしまう。すなわち悪書は読者から、本来なら良書とその高尚な目的に向けられるべき時間と金と注意力をうばいとる。また悪書はお金めあて、官職ほしさに書かれたものにすぎない。


したがって役に立たないばかりか、積極的に害をなす。今日の著書の九割は、読者のポケットから手品のように数ターレル引き出すことだけがねらいで、そのために著者と出版社と批評家は固く手を結んでいる。


三文文士、日々の糧を稼ぐために書く人、濫作家たちが、時代のよき趣味と真の教養に対して企てた抜け目のない相当な悪巧みは功を奏した。エレガントな上流社会全体を誘導し、時勢におくれないように、つまりみなが常におそろいの最新刊を読み、仲間内で話題にするように仕向けたのである。〔・・・〕


人々はあらゆる時代の最良の書を読む代わりに、年がら年じゅう最新刊ばかり読み、いっぽう書き手の考えは堂々巡りし、狭い世界にとどまる。こうして時代はますます深く、みずからつくり出したぬかるみにはまってゆく。


したがって私たちが本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。


いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである。〔・・・〕


悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読みすぎることはない。


悪書は知性を毒し、精神をそこなう。


良本を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるからだ。〔・・・〕


あらゆる時代、あらゆる国の、ありとあらゆる種類のもっとも高貴でたぐいまれな精神から生まれた作品は読まずに、毎年無数に孵化するハエのような、毎日出版される凡人の駄作を、今日印刷された、できたてのほやほやだからというだけの理由で読む読者の愚かさと勘違いぶりは、信じがたい。むしろこうした駄本は、生まれたその日のうちにさげすまれ、うち捨てられるべきだ。いずれにせよ数年後にはそのような扱いをうけ、過去の時代のたわごととして、永遠に物笑いの種になるだけだ。

(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳)



笑っちゃうな、《毎年無数に孵化するハエのような、毎日出版される凡人の駄作を、今日印刷された、できたてのほやほやだからというだけの理由で読む読者の愚かさと勘違いぶりは、信じがたい》なんてね。



ところで実は、上の2人の読書についての記述は、古井由吉の次の文を読んでいて思い起こして掲げたのである。



私も長い間読書というものをやってきて、読書への心得があります。それというのは、読んで深い感銘を受けたとしても、やはり一度は忘れなきゃいけないということ。


よく人は嘆くんですね。本を読んでいいなぁとつくづく感激して、俺もこれで変わるかもしれないと思っても、閉じた瞬間、何を書いてあったか忘れる。


けれど忘れるというのは、自分の記憶の底に沈めるということなんです。それで、あるいは三年、あるいは五年、十年、ふと思い出して読み返した時に、前とは読み方がまったく違う、深くなっている。


読んだことを記憶するのは学者・研究者の生き方です。ただし、その分だけ彼らは犠牲を払っていると思うんですよ。忘れている暇がないのですから。(古井由吉『書く、読む、生きる』「秋聲と私」)