今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化への不満』 フロイト著作集3 P488)
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宮台真治氏が次ぎのように語っているそうだ。
@rawota
宮台真司「小学校で遺体写真を見せた事に憤慨した人は頭が弱い。名古屋の小学校の情報リテラシー教育で、"マスコミがフィルタリングする事の是非"を討論するテーマ。事前に周知し、観たくない人は見てない。メディアが隠したものを流してよいのか、という教育委員会は学び直せ」 #daycatch
@rawota
宮台真司「遺体画像を一概にダメと言うのではなく、このような授業をした後に児童に対し保全保護した上で見せるべき。"青少年が傷つくじゃないか"という奴、青少年にちゃんと聞きなさい。あんたどういう資格で物を言ってるんだ?映像見てないのに偉そうにブッてるんじゃネーヨ」 #daycatch
前後の文脈はわからないが、つい最近、わたくしも次のような文を書いたところだ(参照:斉藤道三とジョン・マケイン)。
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さあて、おわかりだろうか?
千葉望 @cnozomi 2月3日
私たちができることはISILが望んでいる「映像の拡散」をしないことです。彼らの戦術に加担するな。
よい子たちは、ニーチェもプルーストもバタイユも読んではならぬ! もちろん、このようなブログ記事も読むべきではない!
ISIL(アイシル)の戦術だと? ツイッターで流通する「善意」の紋切型のひとつだ。共感の共同体の住人は、このたぐいのツイートを読んで湿った瞳を交わし合い頷き合っておればよろしい!
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これはやや挑発系の文であり、映像を拡散することは、イスラム国の戦術に嵌ることになるのかもしれないと思わないでもない。だが、ああいったツイートが無闇に流通する「善良な」人びとの湿った共感ぶり、そこに臭わないでもない脆弱の馴れ合いの気配、付和雷同性、精神の腐臭のようなものに反吐がでてしまうタチであることには変わりがない。
そもそも人は、隠せば隠すほど、ひとはそれを暴いていたくなる。それは子どもでも同じだ。あるいはこういうことさえ言える、裏には何もなくても隠す仕草そのものが秘密を生み出す、と。
ジャック=アラン・ミレールによって提案された、「見せかけsemblance」の鍵となる定式、見せかけとは無のマスク(蔽い)である。ここには、もちろん、フェティッシュとの連関が示されている。フェティッシュとは、また空虚を隠蔽する対象である。見せかけ(サンブラン)はベールのようなものであり、それは無を隠すのだ。その機能は錯覚を生む、ベールの下には何かが隠されている、という錯覚を。
The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)
ここで、ラカン派コプチェクの講演(2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)、《イスラムにおける恥じらい、或いは「慎み深さのシステム」》という講演録からすこし抜き出してみよう。
コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。
再度ジジェクに戻ればこういうことになる。
……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)
ーーで、なんの話であったか?
精神の腐臭の話である。といってもニーチェほど鼻が利くわけではない。
最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
いささかまわりくどくなったが、宮台真治、--別に彼のファンでもなんでもなく、ときにヒドク頭にくるときがあるのだがーー、なかなかいいこというじゃん。
というわけで、池田小学校襲撃事件後の、中井久夫、浅田彰、斎藤環による鼎談(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)の記事から抜き出しておこう。「社会の心理学化」をめぐる箇所である。いまはいっそう、頭の悪そうな心理学者やら社会学者やらがツイッターなどで寝言を流通させているのではないか。
斎藤環 ……ボーダーラインの治療経験から思うのは、ある種の心の状態というのは薬ではどうにもならない、ということです。中井さんも書いておられるように、向精神訳だけでは人間は変わらない。旧ソ連で政治犯を「怠慢分裂病」などと称して大量に薬を投与したことがあったらしいけれでも、全く転向はなかった。薬物の限界があるんですね。
中井久夫) それが人間の砦でしょう。
斎藤)そういった部分で今後も精神分析的なものが延命する余地があると思うんです。しかし、現状は、アメリカでも日本でも生物学的精神医学が圧倒的ですね。精神分析的な志向を持っている人は、すでにかなり少数派でしょう。せいぜい良くて認知療法ですね。こちらは基本的には、自我を整形して変えてやろうという発想で教育を受けた人たちです。逆にそういう人たちが熱心な精神療法をやったりすることもあるんですが。
浅田)もちろん、プラグマティズムで行けるところまで行けばいいという立場もあるわけで、実際、新しい薬ができて激烈な症状が抑えられたりするの望ましいことに違いない。しかし、それですべてが片付くとは考えられないので、どこかに精神分析的なものの必要性が残っていくと思いますね。
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浅田)ただ、他方でちょっと気になるのは、安易な心理学の流行です。例えば、学校が荒れているというと、「心のケア」が大切だ、心裡カウンセラーを増やすべきだ、というような話になる。もちろん、そういう問題がまったく無視されるよりは、社会が関心を持って力を入れていくほうがいいに決まっている。けれども、中井さんや斎藤さんのレヴェルではなく、安易な心理学のレヴェルでセラピーめいたことをしても、本当に役に立つのかという疑念を拭いきれないんですよ。
そういえば、池田小学校だって、襲撃事件のあと、カウンセラーを大勢派遣したりする。さらには、トラウマの記憶の染み付いた校舎はもう使えないから建て替える、という話になる。これは素人の荒っぽい議論かもしれないけれど、僕だったら、あまり大騒ぎせず、あの校舎で淡々と授業を再開した方がいいように思いますね。子どもというのは案外強いもので、もちろん悪夢を見たりはしながらも、平気で生きていくのではないか。デリケートな「心のケア」が必要だとか言って腫れ物にさわるように扱うことで、かえってトラウマを悪化させてしまうのではないか。校舎の建て替えにいたっては、それこそ、汚れていない白紙の状態にリセットして再出発できる、またそうしなければいけない、という悪しきゲーム感覚のようなものに通じるところさえあると思います。それだと、広島や長崎は原爆のトラウマを、神戸は震災のトラウマを背負っているから、他所に移らなければいけないという話にもなってしまう。大昔の遷都のような発想ですよ(笑)。そうではなく、トラウマの記憶を帯びた場所で、それを踏まえて生きていくことの方が大切でしょう。少なくとも今流行している安易な心理学は、それと反対の方向を向いているように思うんです。
斎藤)トラウマと場所についての見解として、私もまったく同感です。社会学の領域で「社会の心理学化」ということが言われているようですが、確かに、宗教も心理学化するし、精神分析も心理学化するし、そういう悪しき傾向がありますね。そういう環境のもとで発言が取り上げられやすいのは、社会学者であったり、精神科医であったりします。しかし、結局そこでなされているのは、社会学者が心裡を語り、精神医学者が社会を語るという奇妙な転倒なんです。その中で、いわば心のインフレーションが進んでいると思うんですね。もちろん、そこでフィーチャーされている心のあり方というのは非常に素朴で、むしろ無意識的な因果律から隔たったもっと直線的な因果律で支配された世界だったりするわけです。