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2015年7月8日水曜日

おさむい頭によるおさむい文化の国批判

――という表題で「固有名」を掲げて罵倒文を書こうとしたが、やめておこう。

人はそれぞれおさむい頭をもっている。震災直後、鈴木健はつぎのようなツイートをしている。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

われわれはあらためて知ったはずだ、「専門家」という種族がどんなたぐいの「おさむい」頭をもっているかを。

さらにはまた、言葉を操るのに巧みな人物が挑発的な言辞を弄するとき、それが「おさむい」内容であればあるほど、ある意味で効果があることを、われわれは戦争詩なるものに代表されるスローガン的言説存在にてよく知っている。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。 (……)

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。 (小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

あるいは、たくみな「詩人」たちの言葉は常軌を逸した愚行の場でもあるのだ。

・東亜を東亜にかへせといふのみ。//彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。/われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。(高村光太郎)

・げに猛き醜の御楯、大やまとの/天皇の大御軍、征き向はむ。/空ゆかば身も爆ぜむ百雷、/海ゆかば裂くなだり魚雷。(北原白秋「皇軍頌」)

・今こそ妖魔撃滅の時!/挙り立て 剣を取れ/神霊は天に在り/千古不滅の熔岩の島嶼/神国日本を守るは今なり(村野四郎)

「大他者」としての言語は、われわれが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。(ジジェク「詩に歌われる言語の折檻所――いかにして詩は民族浄化と関係するか」)


そうはいっても明らかに言語の扱いに才能豊かな「言葉の魔術師」なる種族はいまでは滅多にお目にかかれなくなったのだから、その内容が「おさむい」ものでしかなくとも敬意を表さなければならない。

たとえば、こういった「詩人」がみせる権力迎合ではなく反権力の発話は聞く者には心地よいものだ。

ここで上の内容とは関係なく、あるサンプルを無署名のまま引用してみよう。

安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!

これは「おさむい」内容どころではなく、内容、形式ともに心地よい。だが次ぎの文はどうか。

・安倍の白痴的原動力には、神経症的または精神病的な邪さがあるんだよ。

・安倍は精神病か少なくとも重度の神経症だ

これは「詩人」の言葉としては敬意を表すれど、「神経症」と「精神病」という語彙の内容を知っているものにとってはいささか「おさむい」内容をもっている。

神経症とは父の名を信じることである。重度の神経症者とは、信じすぎることである。他方、精神病とは父の名が排除されている症状である。すなわち重度の神経症なるものは、精神病とは限りなく離反する。「常識的には」、神経症と精神病を上のように並べるわけにはいかない。「おさむい」文化の国に通用するのみの「おさむい」内容でしかない。

初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち〈他者〉の〈他者〉は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが〈他者〉の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の〈他者〉である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002ーー簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」

とはいえ、この「おさむさ」はなにも詩人だけでなく、雑駁きわまりない呼び方で「現代思想」と呼ばれる――「現代思想」、または店晒しにされた「厚顔無恥」―ーその分野の専門家たちにもみられることであり、たとえばデリダのはしたないラカン批判をいまだマに受てか「父の名」やら「ファルス」やらの用語を、おさむい内容の文脈で使用してしまっている「ほどよく聡明な」思想家やら批評家がいまだ存在するのをしばしば垣間見ることができる。

デリダのファルス批判? デリダ自身は偉大な仕事をなしとげた思想家には相違ないのだろう。デリダの論をほとんど読んでいないわたくしがなにやら言うべきことではない。

デリダ批判のひとつを英文のまま貼り付けておくだけにする。

Lacan's definition of anxiety stricto sensu in terms of the “lack of lack” pitilessly refutes Derrida's claim according to which, in Lacan's “phallogocentric” theory of the subject, “something is missing from its place, but the lack [the phallus] is never missing from it” (J. Derrida, “Le facteur de la vérité,” in The Post Card: From Socrates to Freud and Beyond [Chi-cago: University of Chicago Press, 1987], p. 441; ).

Derrida's problem is that he completely misses the dimension of the Real in Lacan insofar as he always considers lack as an intrasymbolic element guaranteed by the Other of the Other. His considerations on Lacan's “fear” of acknowledging the anxiety-provoking power of literature are equally belied: “[Lacan] forecloses this problematic of the double and of Unheimlichkeit without mercy . And does so, doubtless, in order to deem it contained in the imaginary . . . which must be kept rigorously apart from the symbolic. . . . What thus finds itself controlled is Unheimlichkeit, and the anguishing disarray which can be provoked . . . by references from simulacrum to simulacrum, from double to double” (ibid., p. 460). For his part, in commenting on Hoffmann's tales, Lacan speaks of the “essential dimension which the field of fiction provides for our experience of the Un-heimlich. In reality , the latter is fleeting. Fiction shows it in a much better way , it even pro-duces it as an effect. . . . This is a kind of ideal point but it is very precious for us since this effect allows us to see the function of fantasy” (Le séminaire livre X, p. 61).(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)

…………

いまでは古くなったかもしれないアランの詩と散文論を掲げておこう。わたくしにはかねてより耳にここちよい文章にどこか警戒する心持があるのは(もっともそれは時と場合によってでしかないが)、若い頃読んだこの文章の印象がいまだ強烈に残っているせいだ。

アラン『プロポ』(弥生選書)より。(井沢義雄/杉本秀太郎訳)

私はこれまでに時どき、詩人たちについてかなり手きびしく語ったことがある。雄弁家、それも非凡な雄弁家たちを、私はそれ以上に大して愛しているわけではない。いたって学識のある人が、そのことで私につっかかってきた。どんな話でも心底から出たものは雄弁の動きとリズムをおのずと帯びる。ただすぐれた詩においてのみ、このリズムは一そう規則立っているのだ、と彼はいう。彼はそこで実例をそらで引用したが、なかなかうまく択んだ。私は散文をしかるべく弁護するすべを知らなかった。散文は、読者が声を出して読むとかならず損なわれる。そして目の方がいっそうよく散文をとらえるように私は思う。散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。どんな遠慮も知らず、いかなる宗教臭もない。これこそ、すっかりはだかになった人間性そのものである。筆致が道具のように喰い入るのだ。

ナポレオンはフランス野戦のとき、ソワッソンの町が二日も早く陥落したのち、しばし無言であったが、やがていった、「そんなことは偶発事にすぎぬ。だがあのときは幸運がほしかった。」これが、ほかの時にはまたみずから運命を作った人のことばである。ここには翼のはばたきがある。美辞をつらねる人々は、ためしにやることしかしないが、この人間は勝負に出るのだ。注目にあたいすることだが、訂正加筆をせぬこの術の他の実例を求めにゆくとすれば、ナポレオンと同時代、そして彼と同じ行動の人、スタンダールに、私はそれを求める。「彼は脚下に二十里四方の土地を見た。ハヤブサであろう、彼の頭上の大岩から飛び立った鳥が、いたって大きな輪を、音もなく、えがいているのがときどき彼の視界に入った。ジュリアンの目は、機械的にこの猛禽のあとを辿っていた。その落ち着いた、しかも力強い動きが、彼の心を打った。彼はあの力をうらやんだ。彼はあの孤立をうらやんだ。それはナポレオンの運命であった。いつの日か、それが彼の運命になるだろうか。」(『赤と黒』)

修辞と呼ばれているあの模倣の痕跡のごときを、私はここにはまったく見かけない。しかも、喜劇なきこの散文は、公定の芸術(散文)が美辞をつらねて弁じ立てていた一時代のものなのである。ここには、欲望というよりもむしろ意志が、姿をあらわしている。行動が感情をむさぼり食ってしまう。同様に、この散文は何巻もの詩をむさぼり食ってしまう。ちょうど土が水を吸いこむように。イメージは、ここではオペラの舞台装置とはちがう。イメージは動きであり、稲妻であり、とぶ鳥のかげなのだ。「えがく」というこの語が、二つの意味をもっているとは、すばらしい。動きをえがくことは、まさにその動きをすることである。それゆえ、一方で描写は比較する。しかし他方で、描写は象徴するのだ。

散文とは何か、散文は何をなし得るのか、散文はどうあるべきか。私はこれらを知っているとはまだとてもいえない。絵画について何かと書く芸術批評家たちに、私はしばしばおどろいた。なぜなら、絵画は散文よりもなお一そう隠されているからである。こんにちでは、私は詩と散文のあいだの対立関係に気づいている。詩は、ふとした出会いで集まったイメージを延べ拡げ、かつ成長させる。そしてある種の散文は、こうした装飾を徹底的に叩きのめすのである。しかしながら、ヴァイオリンの弾き方がまなばれねばならぬごとく、散文の弾き方も、まなばずしては体得されえない。スタンダールのなかに、装飾をあまりにうち倒してしまう一つの術を、私は見いだす。ところで一方、シャトーブリアンをまねるのは危険性なきにしもあらず、ということを私は知っている。逆に、スタンダールは、ひとりならずの若い天分を枯渇させるだろう。

スタンダールは、雄弁家から、ありうる限りにおいてはなれている。説教は大げさで冗漫なものである。説教は耳と一致させなばならない。いく度も耳を打ち、そして耳をひき戻さねばならない。用意しておき、前ぶれしておくこと。ともかく、雄弁家の力、抒情の力を作っているのは、期待なのだ。韻の期待、区切りの期待、声の抑揚の期待。一完結文とは、手はずをととのえられ、もつれ、そして解決を見る劇のようなものである。それは窓ごしに見られた嵐なのだ。他方、散文の芸術家は事物の空洞そのもののなかにいる。彼の足音の反響がきこえてくる。だが二度とこだましない。ただ一度きりなのだ。彼は道具を休めて空を仰ぐ。詩の一切が通りすぎてゆく。丘から丘にとどく音のように。あのはだかの文体の魔術、それは喜劇を見る子供のように待っているのではなく、ふりかえって自己のうしろを注視することである。目の一躍によって読みかえす。イメージをもう一度しっかり捉える。あの固定した線条があなたを駆けさせる。これに反して、雄弁の芸術は、坐ってじっとしているわれわれのために駆ける。このゆえに、一方の芸術は朗読されたがり、他方の芸術は彫り刻まれることを求める。散文、つねに片足に体をかける、ブロンズ製の、いそぎの使者。

…………

※追記

さてふと思い返してみたら、

・安倍の白痴的原動力には、神経症的または精神病的な邪さがあるんだよ。
・安倍は精神病か少なくとも重度の神経症だ

ーーとの記述は、ラカン派の最先端の認識のひとつに近いのかもしれない。上の叙述は旧来の古臭いラカン派の鑑定診断をもとにした叙述であるかもしれない(参照:精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状)。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller