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2016年2月13日土曜日

詩なんてアクを掬いとった人生の上澄みね

《僕は四月に女と別れられなかつた》(「二つの四月」『絵本』1956 所収)






◆「情熱大陸、谷川俊太郎の3回結婚離婚した妻や息子、1日1食生活

1番目の妻は詩人で童話作家の岸田衿子さんで、結婚期間は1954年から1955年のたったの1年間。
ちなみに、岸田衿子さんの妹は女優の岸田今日子さんです。

谷川俊太郎さんの近所に生まれ、幼なじみということで交際が始まり結婚されたようです。
ですが、谷川俊太郎さんが書いた「大きな栗の木」を文学座で大久保知子さんが演じたことで、急接近した谷川俊太郎さんは岸田衿子さんと別居します。その後離婚。

2番目の妻は新劇女優の大久保知子さん。結婚期間は1957年から1989年の32年間。

1960年には長男の賢作さんが生まれます。
(谷川賢作さんは現在作曲家でピアニストです)

1963年に長女の志野さんが生まれます。
(志野さんは現在アメリカ・ニューヨーク在住)

谷川俊太郎さんの母親の介護問題で夫婦に亀裂が入り、母親の死後に以前から知り合いだった岸田衿子さんと再会。2年後の1986年佐野洋子さんとギリシャへ旅行へ。

1989年に谷川俊太郎さんの父親の死後、大久保知子さんと離婚。

3番目の妻は作家で絵本作家の佐野洋子さん。結婚期間は1990年から1996年。
佐野洋子さんと言えば絵本の「100万回生きたねこ」が有名ですね。

正式な離婚理由は不明ですが6年の結婚生活を1996年に終えます。




◆『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』1975所収


きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで

にっちもさっちもいかないんだよ
ぼくにはきっとエディプスみたいな
カタルシスが必要なんだ
そのあとうまく生き残れさえすればね
めくらにもならずに

(……)

ーー「谷川知子に」1972初出







◆『女に』1991により

指先はなおも冒険をやめない
ドン・キホーテのように
おなかの平野をおへその盆地まで遠征し
森林限界を越えて火口へと突き進む



ーー「指先」

…………

見るだけでは嗅ぐだけでは
聞くだけではさわるだけでは足りない
なめてあなたは愛する
たとえば一本の折れ曲がった古釘が
この世にあることの秘密を

ーー「なめる」

…………

あなたがまだこの世にいなかったころ
私もまだこの世にいなかったけれど
私たちはいっしょに嗅いだ
曇り空を稲妻が走ったときの空気の匂いを
そして知ったのだ
いつか突然私たちの出会う日がくると
この世の何の変哲もない街角で

ーー「未生」

…………

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ

ーー「素足」

佐野「見えてる通りの人なんじゃない?それでもお育ちもよろしいしお行儀もよろしいし、もみ手もちゃんとなさるし、お作品はあの通り素晴らしいし。

だけどこの人は、見えてる通りぐらいでお付き合いをしていれば、その見えてる通りがずっと通っていく人だと思うんですけれども、よく見ると実に変な人で、言ってみれば地球の上で生きていてはいけないようなとんでもない野郎じゃないか、っていうところはありますね。

たとえば私、この人にはモラルってものがないと思うんですね。「非常識」っていうのは「常識」があって「非」なんですよね、だけどこの人は「無常識」だと思います、私。」(佐野洋子『ほんとのこと言えば?』)


◆『世間知ラズ』1994より


ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
(……)

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったのか
好きな焼き芋を食っている私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる

ーー「世間知ラズ」初出1990 より

…………


詩なんてアクを掬いとった人生の上澄みねと
離婚したばかりの女に寝床の中で言われたことがある

ーー「マサカリ」1990 より

…………

電話をしている最中に女が返事をしなくなった
いくら話しかけても貝のように口を閉ざしている
しわだらけのズボンと薄汚れたTシャツのまま
タクシーを拾って真夜中にぼくは女に会いにいった
黙りこくっている女は人間じゃないみたいだったが
かと言って岩でも木でも動物でもなかった

ーー「言葉の鍵」1990 より

…………

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくても聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属していて
静けさはこの地球に根ざしている

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の棘は地下でからみあう毛根につながり

声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

ーー「夕立の前」1991 より


…………

◆『モーツァルトを聴く人』1994より


何年か前モーツァルトを聴きながら車を運転していて
涙で前が見えなくなって危なかったことが何度かあった
もうぼくは人の言葉を聞きたくなかったんだそのころ
特にあの女の言うことは

モーツァルトは許してくれた
少なくともテープが回っている間は
だがあの女は一瞬たりともぼくを許さなかった
当然だ

--ー「つまりきみは」より

ここに収めた作のほとんどは、前集『世間知ラズ』(1993)と平行して書いたものである。(『モーツァルトを聴く人』「あとがき」)

六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型

(……)




五分前に言ったことを忘れて同じことを何度でも繰り返す
それがすべての始まりだった

何十個も鍋を焦がしながらまだ台所をうろうろし
到来物のクッキーの缶を抱えて納戸の隅に鼠のように隠れ
呑んべだった母は盗み酒の果てにオーデコロンまで飲んだ
時折思い出したように薄汚れたガウン姿でピアノの前に坐り
猥褻なアルペジオの夕立を降らせた
あれもまた音楽だったのか

その後口もきけず物も食べられず管につながれて
病院のベッドに横たわるだけになった母を父は毎日欠かさず見舞った
「帰ろうとすると悲しそうな顔をするんだ」
CTスキャンでは脳は萎縮して三歳児に等しいということだった
四年七ケ月病院にいて母は死んだ

病室の母を撮ったビデオを久しぶりに見ると
繰り返されるズームの度に母の寝顔は明るくなり暗くなり
ぼくにはどんな表情も見わけることができない
うしろでモーツァルトのロンドイ短調ケッヘル五一一番が鳴っている
まるで人間ではない誰かが気まぐれに弾いているかのうようだ

うつろいやすい人間の感情を超えて
それが何かを告げようとしているのは確かだが
その何かはいつまでも隠されたままだろう
ぼくらの死のむこうに

ーー「二つのロンド」より






ぼくの母はピアノが上手だった
小学生のぼくにピアノを教えるときの母はこわかった
呆けてから毎晩のようにぼくに手紙を書いた
どの手紙にもあなたのお父さんは冷たい人だと書いてあった
お父さんのようにはならないで下さいお願いだから
五年前に母は死に去年父も死んだ

ーー谷川俊太郎「ザルツブルグ散歩」より

旅先の殺風景な狭いホテルの一室で朝、イヤフォンでモーツアルトを聴いている。曲は選べないが、このAbacus.fmのMozart Pianoというサイトはここのところ、ずっと内田光子の演奏を流している。グレン・グールドのモーツアルトも好きだが、内田光子を聴いたらグールドが野暮ったく思えてきた。美には冷静で強い透明な意志が必要だと思わせる演奏だ。(俊) 谷川俊太郎.com




「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いていると
ぼくは一生ひとりで暮らすほうがよかったんじゃないかと思う
そば粉のパンケーキを焼いてメープルシロップをかけて
ひとりで食べる自分の姿が目に浮かぶ

友達なんかだあれもいないのだ
もちろん妻も恋人も
従兄弟の名前ひとつ覚えていない
両親の墓参りは嫌いじゃないが
それはもうふたりとも死んでいるから

マスターベーションするんだろうか
それとも女を買うんだろうか
朝までしつこくやるんだろうか
いろんな体位で

赤ん坊の夜泣きも妻の罵声も知らないぼくが
「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いている
だがひとりぼっちのぼくはもうひとつの人生を思い描いたりはしない
忠実な老犬のようについてくる旋律を従え
冬枯れの並木道を歩いてゆく
かかわったこともない人間への憐みに満ちて

そうやって精一杯この世を愛しているつもりなのだ
悪意も情熱もなく

――「ひとりで」1990『世間知ラズ』所収






…………

さて用心のために次ぎの文をつけ加えておこう。


四十余年前、主に「僕」という一人称を使って私は詩を書き始めました。ふだんも私は僕と言っていて、友人同士のあいだではときに俺になることもあったにしろ、それはごく自然な選択だったと思います。作品における一人称と現実の私とのあいだに、ほとんど距離はなかったと見ていいでしょう。第二詩集である「六十二のソネット」では一人称は「私」に統一されています。どうして「僕」を「私」に変えたのか、はっきりした記憶はありませんが、もしかすると一種の背伸びだったのかもしれない。本来はなかったであろう「僕」のニュアンス、いささか子どもっぽい、ときにはカマトトともとられかねない感じが一九五〇年代にはもうあって、それを避けたかったのでしょう。

 それ以後の作では「僕」「私」「俺」などが混在しています。作品の中に作者、すなわち私自身ではない主人公が登場し始めたということもありますが、その主人公が直接話法で語らない場合にも、詩を書いている私と、詩の中の私とのあいだに一篇一篇の作によって異なるにしろ微妙な距離がでてきたことがその理由でしょう。つまり詩を一種のフィクションとして書くことを、私は知らず知らずのうちに覚えたと言えます。しかしこのことはこういう単純な説明では解明できない、詩というものの本質にかかわっています。私はいまだに一貫した一人称を用いることが出来ず、一篇の作を書き始めるごとに、どんな一人称にしようか迷うことが多いのです。

 近作「世間知ラズ」と「モーツァルトを聴く人」では「ぼく」が使われていて、それは当時の私の気分による、意識的な選択でした。「私」に比べると「ぼく」は一種の傷つきやすさがあり、その頼りなさが私には必要だった。その「ぼく」は「二十億光年の孤独」の中の「僕」とは違うと私は考えています。

 一篇の詩とその作者である詩人との関係は、ふつう考えられているよりはるかに複雑微妙で流動的です。一篇の詩はたしかにその作者の現実生活なしでは生まれてこないものですが、その詩に述べられた考えや感情が、そのまま作者である詩人が現実に抱いたものであるかと言えば、そうは言えないことも多いのです。詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。作者である詩人は「形」の中にひそんでいる。何かを言いたいから書いたのだという視点からだけでは、詩の中の「私」はとらえられないと思いますし、詩に書かれている内容をもとにして、詩人の正邪を断罪するのも公平でないと思う。とは言うものの、詩が散文による書き物と違って、この世の道徳的判断からまったく免責されているというふうには私も考えていません。詩人はたぶん現実世界から見れば不道徳な存在とならざるをえない一面をもっていて、その自覚なしには彼ないし彼女はこの世に生きてはいけないのです。自らのいかがわしさを通して、詩人は世間にむすびつくと今の私は考えています。