2016年2月15日月曜日

女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ

女性の論理(非全体の論理)が必ずしもいいわけじゃないよ、たぶんね。


男性の論理/女性の論理は、一般的に次ぎのように説明される。

男性の論理とは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、
女性の論理とは、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)

「現代思想」的には、否定神学批判ーー結局、例外の論理批判だろうーーなどもあり、女性の論理が顕揚された時期があるし、いまもそう思い込んでいる連中はいるだろうけど。


◆「三つの「父の死」」より再掲(Levi R. Bryanのブログより)

最初は、我々は考えたかもしれない、女性の論理(非全体の論理)に基づいた社会構造の方が遥かに上手くゆくと。とどのつまり、女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

ラカンは次のように簡潔に言うのを好んだ、男性の論理は、ホモ-セクシャル的であり、女性の論理は、唯一真のヘテロ-セクシャルであると。男性の論理についてのこの見解は、フロイトの悪評高い『トーテムとタブー』の事例に明らかに見られる。かつまた『集団心理学と自我の分析』における軍隊組織の分析も同様に見られる。

ここでのポイントは、性別化された男性がゲイであるということではなく、彼らが皆、享楽と欲望を統制する一つの同じ法の支配下に置かれるということだ。こういわけで、兄弟の一団が『トーテムとタブー』における原父を殺したとき、彼らは、代わりに、母と姉妹を所有することに対する禁止の法を設置する。

反対に、ラカンが主張するには、女性として性別化された主体は、差異の、異性愛の真の愛を持つ。もちろんそれは「話す存在の非-全体が去勢の法に従属する」限りとしてである。

しかしながら、女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

ここでの法は、法への一つだけの例外とともの超越性と普遍性である(多分、この理由で、ブッシュ政権の最後の26%の支持者は彼の行政当局の不正に煩わされるところはないだろう)。

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(註)

多分、もっと根本的には、女性的ネットワーク社会は、あらゆるタイプのファリックな主人あるいは導師の探求の発生を伴う。(……)

おそらく、これが、ネットワークベース社会によって開かれた新しい欲望の自由が、主体を不安で満たす理由である。というのは、もはや、何を欲望したらいいのかを教えてくれる指針がないからだ、「私が欲望するのを私は知っている。でも、私にとって、正しい欲望とはどんな欲望なのか、どんな欲望が私を欲望させるのか?」。これがまたあらゆる種類の原理主義の勃興を説明してくれる。そこで主体は、欲望の空間を創造するヒエラルキー社会モデルに執着する。かつまたそのモデルにおいては、後期資本主義の虚しい憂鬱な姿勢を回避できる。

ようするに、象徴界の「非-全体」(女性の論理)を認める限りでは、それは数多くの点で好ましいし、真実あるいはリアルに基づいているにもかかわらず、女性の性化が我々を救うとは言えない。

しかしながら、心に留めておかねばならないポイントは、男性と女性の性別化は、父の名とエディプスのまわりに組織された秩序を基盤としていることだ。

言い換えれば、性別化は現実界に直接関係があるにしろ、父の名が、主体性がそれを通して形成される基本的様相である限り、男性と女性の性別化のみがある。後期ラカンは他の可能性を思い描いている。すなわちセミネール23(サントーム)にて、ラカンは表明した、「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」と。さらに、父の名は複数化される、その機能に奉仕するためにシニフィアン構造のヴァラエティが許容される。

最終的に、精神病は全ての主体に一般的なものとなる。父の名のまわりに組織されたエディプス構造は、ボロメオの結び目をつなぐ一つの方法ーー他のものの中のーーに過ぎなくなる。それは〈大他者〉 (A)の不在に応答する一つの方法でしかない。

代わりに、サントームがRSIの三つの輪をつなぐようになる。それはエディプスの役まわりを必要としない社会的リンクをもたらす。多分、そのときボルメオの臨床は、エディプスを超えて結び目をつなぐ別の方法を提供するが、男性と女性の性別化を超えた異なった形式の袋小路を生み出すだろう。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy、2008,私訳)


「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」ってなんだろうね、

ーーー我々は、象徴的権威なしでやっていくことが可能だ、人が主人のシニフィアンを使用する限りで、ってとこだろうか(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。

まあ、とはいえ、理論では世界はなかなか変わらないさ、

一度、世界経済が崩壊するのが一番近道だよ、「革新」のためには。

世界は行き詰るにきまってるさ、それが、《五年先か十年先か知りませんよ。》(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

だいたい今のまま彌縫策やりながら、なんとか続くって思っている連中こそが、ユートピアンか不感症かだぜ、どうやって続くことがありえるってんだい、この破廉恥な「資本の論理」の世界が。

資本の論理って口に出したところで、この論理ってのは例外の論理じゃないよな、差異の論理だよ。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(岩井克人

Levi Bryanが上で言ってるじゃないか、女性の論理は差異の論理だって。 ウンザリだね

ま、フランス革命あって、ロシア革命あって、いずれにせよ、そろそろ次の革命が起こる周期だろ、はあん?