2016年3月27日日曜日

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない

また、ナンタラくんか、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」は難解だって? 

だったら以下、簡潔版だ。ほとんどくり返した内容だがね。

…………

たとえば、ラカンのセミネールⅩ(不安)には次のような図がある。




これは、享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望する主体 sujet désirant としての基礎を構築するということ。

ようは、享楽への欲望の仲裁物として不安がある。. 《l'angoisse fait le médium du désir à la jouissance.》(S.10)

いずれにせよ、この図において、享楽の主体と欲望する主体がどちらが先行してあるかは明らかだろう。

これも、sujet du désir(欲望の主体) / sujet de la pulsion (欲動の主体)や sujet du désir /sujet du corps〔身体の主体)、l'être parlant (話す存在)/ corps parlant(話す身体)のヴァリエーション。


同じく不安のセミネールには次ぎの表現がある。

« Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir ».(S.10)

ーーさて、なんと訳すべきか、とりあえず、「愛のみが享楽を欲望へと下降させてくれる(身を落させてくれる)」とでもしておこう。

くり返すが、欲望が享楽(欲動)と同じものであることはありえない。

欲望は享楽に対する防衛である、《le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.》(E825)

すなわち、「欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である」(参照

これは、ジジェクが1991年に既に、ミレールに依拠しつつ、疑問符つきだが、指摘している。

欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。(ジジェク、斜めから見るーー「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

ジジェクは、最近は、ミレールの欲望/欲動の区別さえ甘っちょろい、と言っている(参照:欠如と穴(欲望と欲動))。


ここで、ラカン晩年のララングに言及するなら、これは欲望の領域ではなく、身体の享楽の領域の概念。

「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります.(ラカン、Scuala Freudiana 1974.3.30

無意識の形成物とは欲望の次元(ララングとは身体の享楽の次元)。

フロイトの「我々の存在の核」(Kern unseres Wesen)とは、この欲望・シニフィアンの彼方にある欲動(享楽)・身体の現実界である、というのが現在のフロイト・ラカン派の「常識」。それは「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」などで見た。

最晩年のフロイトが、『終りなき分析』にて、「不可能な職業」として分析家を語ったのもその意味(ラカン曰く、フロイトの遺書)。

分析 analysieren 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能の職業」 Unmögliche Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育edukierenすることと支配するregierenことである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

もう、あまりゴタゴタ言いたくないがーーわたくしは専門家ではけっしてないのでーー、この最低限の認識がないのなら、フロイト・ラカン派とは決して呼べないはず。これは解釈の相違云々以前の問題。

欲望とは本質的に、つまり厳密に言えば、シニフィアンの世界に入った後のものであり、ポストエディプス的主体の領域にある。これもくり返した(参照)。

欲望の領野は、二つの欠如 Deux manquesの、象徴界の欠如にかかわるもので、もうひとつは身体の欲動の穴は、現実界にかかわる。これも、すでにセミネールⅩⅠにて、automaton/tuché の区別で明瞭化されている(参照)。

自由連想は、automaton の領野(シニフィアンの領野)の話。そこにおいて「我々の存在の核」(Kern unseres Wesen)に遭遇する。これは前期フロイトからすでにある。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

ーーフロイト自身の文は、「「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」」を参照のこと。

欲動のリアルとの遭遇は、自由連想のたぐいでは埒があかない。したがって、フロイトは分析は不可能な職業といった。

いま、身体的な欲動に目を瞑るなどということはありえない。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe、私訳)


これは何もラカン派のみの見解ではない。

いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収ーー「言語の深部構造」)


これが分かっていない人は、分析家どころか、臨床心理士でもすくないのではないか、とさえ言っておくよ

…………

※附記

享楽がすべて剰余享楽であるわけはない。セミネールⅩⅨには、四つの言説の形式的構造のヴァリエーションとして次の図がある。




形式的構造の図は次ぎの通り。







これはすでにあの人物は誤謬を認めている。

そこでは jouissance という用語が単独で「禁止された悦」の意味においてしばしば用いられていました.したがって,Lacan のテクスト全体においては単独で用いられた jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して,次のように言い直したいと思います:(参照

仮にいまだ剰余享楽一元論のようにみえるなら、認めたにもかかわらず、以前の固定概念がツイートに滲み出ているだけ。

たとえば、2016.3.15 のツイートにて、あの人物が言っていることは、前期ラカンのみを参照してのおどろくべき曲解。

誰にでも誤謬はある。難解な箇所は異論百出。とはいえ、欲望と主体$ という基本概念の誤謬は致命的。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

主体 $ とは、その文字を見れば分かるように、棒線(シニフィアン)で分割(分裂)された主体だよ。そのとき初めて欲望は生まれる。

 《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)

ラカンは、欲求が原抑圧を構成して後に、欲望は現われる、と言っているわけで、この時点でようやく主体 $ が生まれるという意味でもある。

事実、《le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)、つまり欲求(段階)においては、いまだ主体はない、と明瞭にラカンは言っている、

$ とは、シニフィアンによって、物の殺害にあった主体(ラカン、ローマ講演、1953).。ま、言ってしまえば、が掛かった主体さ。

$、とは、シニフィアンの主体ということであり、それが欲動(本能)と等価であるなどということは、どんなに逆立ちしてもありえない。欲動とは表象されえないもの。

《Toute pulsion étant… par essence de pulsion …pulsion partielle, aucune pulsion ne représente… 》(S.11)

というわけで、「共有された無知」で、インターネットラカン派いつまでやってんのか、おまえさん!

ま、あのおっちゃんがどこでどうまちがってあんなになっちまったのかは謎だがね

とはいえ、いくら善意に考えても、あの欲望が一次的なものとか、Trieb = $ = désir ってのは世界稀有の解釈だよ

以上、これにてこの話題は打ち切りにするつもり。