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2016年7月13日水曜日

体系化/非=全体化の法則

…真理と呼ばれる巨大な疑問符の解明に奉仕する科学的なディスクールが、心理的事象から追放してしまった「精神分析体験」をそっくり救い出すために、「非=排除の法則」と「非=全体化の法則」とを心理学に導入することで、逆に「精神分析学」を科学として確立したのがラカンのフロイディスムの革命であるとするなら、「還る」べきフロイトとは、実はどこにもない場所のことにほかならぬからである。「排除」と「体系化」とは、単一者の表象的な影としてあるあの途方もない疑問符を光源とする、小規模な無数の「なぜ」を脈絡づけるに恰好な、絶句を隠蔽する饒舌に属するものなのだ。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」1973)

この文は、ドゥルーズの『サドとマゾッホ』に付された「解説」からなのだが、蓮實重彦は、すでにこの1973年時点で、ラカンの「非全体の論理」に触れている。当時、彼は37歳だ。

非全体 Pas-Tout の論理とは、ラカンのセミネール20(アンコール)での叙述がよく知られているが、アンコールは1973-1974年のセミネールである。上の蓮實重彦の文はそれ以前に書かれたものということになる。

このマゾッホ論翻訳当時、蓮實はドゥルーズにインタヴューもしており、そのパリ滞在の折に知友などから知ったのであろうが、そうであるにしろ、とても早い時期の紹介であることは間違いない。

とはいえ、そもそもドゥルーズのマゾッホ論のイロニー/ユーモアの対比における後者が、非全体の論理を提示しているという観点もあるだろうから、ラカンへの依拠というよりもドゥルーズを翻訳するなかでの「非=全体化の法則」への言及であるといえるかもしれない。

ラカン自身は、セミネール20以前にも、たとえばセミネール1908 Décembre 1971)において、「非全体」という語をーーおそらく初めてーー口にしている、《L'introduction du « Pas-Tout » Le « Pas-Tout » n'est pas cette universelle négativée,…》

セミネール18にも非全体という語彙ではないが、その兆しはある、 « Ce n'est pas de toute femme que se peut dire qu'elle soit fonction du Phallus »(09 Juin 1971)

もっともこれは言葉上の問題であり、ラカンが1958年前後に「大他者の大他者はない」と言い出したとき、すでに非全体の論理思考は始まっている。

そもそも「大他者の大他者はいない」とは、ニーチェの「神は死んだ」にかかわるはずで、ニーチェ以降、すくなくとも20世紀以降の思想は、すべてその刻印がその多寡はあれ捺されているはずだ(参照:蓮實重彦による il n'y a pas d'Autre de l'Autre

そして現在はメイヤスーの「流通」にかかわって、「神の死の死」ということさえ言われる。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、彼が言っているのは、物事を説明する原理、中心的で唯一の、全てにかかわる原理はないということだ。さて、もし唯一の全てにかかわる原理はないなら、科学もまたもう一つの解釈にすぎないことを意味する。そして科学は、絶対的真理への排他的権利を持っていないことになる。しかし、もしそれが本当なら、世界についての非科学的な思考方法がーー宗教的方法も含め--、再浮上することになる。(ジジェク、2012、私訳ーー神の復活(神の死の死)

ジュパンチッチは、ラカン派の観点から、次のようなメイヤスー批判をしていることをすこし前にみた。

すなわち、ラカン派の立場からは「必然性は非全体である」(非一貫性の論理)だが、メイヤスーの「すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は」とは、「無神論者の神」つまり、「神がいないことを保証する神」だ、と(例外の論理)。

メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDFーー「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)

 我々も、かりに女性の論理(非全体の論理・差異の論理)の観点を前面に出しているからといって、その論理自体が、非全体の論理の絶対化になってしまっている、ということがままありうる。

以前、偽日記の古谷氏が次のように記していたのをいま思い出したので、ここに付記しておく(もっともわたくしは内田氏の書を読んでいないのでこの批判の正否は分からない。ただこういうことがしばしばある、というサンプルとしてここに掲げる)。

……内田氏の分析=言説が退屈なのは、「決して真理を語ることは出来ない」という物語を、「真理」として語ってしまっているという点にあるように思える。(……)『映画の構造分析』には、バルトを強引にラカン化して読む場面があるが、無数のざわざわとざわめくもの(偶発性)を、ある一つの「機能する無意味」(必然性)へと読み替えてゆく手つきなど、まさに「読み殺す」という感じがしてしまう。(「偽日記」(2003)

ーーこういった振舞いを、わたくしもひょっとして一度ならずやっているのではないか、と怖れるわけだ・・・

たとえばデリダの脱構築とは、よく知られているように「否定神学批判」に(も)かかわり、例外の論理批判ということがいえるが、デリダの立場がつねに「非全体の論理」であるかどうかは疑わしい、というラカン派の批判がある。

デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 manque du manque (後引用)である。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité)と。

デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴的要素 intrasymbolic element として、常に考えているように見える。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

…………

※付記

非全体の論理とは、ニーチェの神は死んだが起源のひとつであるとはいえ、さらに遡れば、カントの「無限判断」がある。

二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

ラカンはこの論理のもとに次のように言うことになる。

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は非全体 pas « tout » なのだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19)

 このジジェク=マルクス版は次のように翻訳できる。

《ブルジョアでないすべては大衆だろうか。ああそうかもしれない。だが大衆は非全体なのだから、どうして大衆でないすべてがブルジョアだというんだい?》

The same goes for class struggle: we do not simply have two classes; there is—as Marx himself put it—only one class “as such,” the bourgeoisie; classes prior to the bourgeoisie (feudal lords, clergy, etc.) are not yet classes in the full sense of the term, their class identity is covered up by other hierarchical determinations (castes, estates…); after the bourgeoisie, there is the proletariat, which is a non‐class in the guise of a class and, as such, the Other not only for the bourgeoisie but in and for itself. How then to define woman if not as simply non‐man, man's symmetrical or complementary counterpart? The Kantian notion of “infinite or indefinite judgment” as opposed to negative judgment can again be of some help here:…(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)

…………

ところで、ラカン自身はどうなのか。「非全体 Pas-Tout」の論理を全く絶対化していないのか。「大他者の大他者はない (Il n’y a pas d’Autre de l’Autre)」を「真理」としてしまっていることはないのか。

ーーラカンは、精神分析的言説もまた、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実を認めていた(Lorenzo Chiesa、2014) 。