2017年6月27日火曜日

鮮やかな青色トカゲ

夕方、庭を散歩したり水まきしたりするとき、ひどく美しいトカゲにときおりめぐりあう。コバルトブルーというのかエメラルド色というのか、とても鮮やかな青色トカゲである。全身がそうであるものが一匹、首のすこし下から鮮やかな青であるもう一匹。もちろん薄い灰白色や茶褐色のトカゲは数多くいる。

いまネットでblue Lizard の画像を見てみたが、我が家のトカゲほど美しい画像には行き当たらない。ほぼ同じ色のトカゲの画像を貼り付けるが、一匹は全身が次の色なのである。




美しいトカゲならなおさらそうだが、ふううの色のトカゲでも、彼らに行き当たるとしばらく立ち止まって眺めている。

日光に暖められた石の上に
トカゲがはいあがり
動いてはとまり
とまっては動き出す

トカゲが思い出で
私の額は石であろうか
それとも
トカゲが私で
思い出を
はいずり回っているのだろうか

切り落とした
しっぽの黒い数が
白昼
私の歩みを
止める

ーーリルケ「トカゲ」

とはいえ切り落とした尻尾に出会ったことは数度だけである。

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン,E 853)

だがそうではなくても、トカゲの姿をみていると、人生の「生垣」に穴が開いたという感を催さないではいられない。

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)

あれが「永遠」なのである。西脇にとってもニーチェにとっても。

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。
静かに。――

わたしに何事が起こったのだろう。
聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。
わたしは落ちてゆくのではなかろうか。
落ちたのではなかろうか、――
耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。

ーーニーチェ『ツァラトゥストラ』

もちろん永遠を垣間見るためには、トカゲでなくてよい場合もある。

なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ(「さんざしの実」)

向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている(「近代の寓話」)

イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。(「六月の朝」)

美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる(「失われた時」)

坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午(「鹿門」)

だがこれらの西脇順三郎の詩句に代表される女のなめらかな舌とは、やはりトカゲの舌のことである。

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした
石垣の間からとかげが
赤い舌をペロペロと出している(「最終講義」)

人は「神々しいトカゲ」に巡り合う瞬間を愛しまねばならない。
それは《一瞬よりはいくらか長く続く間の光景》である。

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?(『燃え上がる緑の木』) 

ニーチェは狂気に陥る直前にトカゲをめぐって決定的な文章を書いている。

ほんとうにこの書は、 岩塊のあいだで日なたぼっこをしている海獣のように、 身をまるめて、幸福そうに、 たっぷり日をあびて寝ころんでいるのだ。 つまるところ、わたし自身がその海獣だったのだ。

この本の一文一文が、ジェノヴァ附近の、 あの岩がごろごろしているところで、 考え出され、生捕りにされたものである、 そのときわたしのそばには誰もいず、 わたしはひとりで海と秘めごとをしていたのだった。

いまでも偶然この本に手を触れることがあると、 ほとんどその中のすべての箇所がわたしには、 何か類のないものをふたたび深みから 引き上げるためのつまみ場所となる。 そしてその引き上げたものの肌全体が、 追憶のかすななおののきによってふるえているのである。

この本における得意の技術は、 軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲ göttliche Eidechsen と名づけている瞬間を、 ちょっとのま釘づけにするという、 けっして容易ではない技術であるーー

といっても、あの若いギリシアの神が あわれなトカゲを突き刺したような残酷さでするのではない。 だが、尖ったもので突き刺すことでは、同じだ、 つまりわたしはペンで突き刺すのだ……

「いまだ輝き出でざるあまたの曙光あり」-- このインドの銘文が、この本の扉にかかげられてある。(ニーチェ『この人を見よ』)