1844年生れの29歳のときの講義草稿ーー生前は正式な出版されておらず、いわゆる遺稿ーー「道徳外の意味における真理と虚偽 Ueber Wahrheit und Kuge im aussermoralischen Sinne」(1873年)という論は実にすばらしい。いまごろそんなことに気づいたというのは忸怩たらざるを得ない。人はこのニーチェの生涯を通しても最高の言語論ーーすくなくとももっともよくまとまった言語論ーーをなによりもまず読まねばならない。
わたくしは独語には縁のない身であるがーー100語ぐらいの単語をシッテイル程度であるーー、ここでは独原文も併記しよう。
なおわれわれは、概念 Begriffe の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語Wortというものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 Urerlebnis に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen。
Denken wir besonders noch an die Bildung der Begriffe. Jedes Wort wird sofort dadurch Begriff, daß es eben nicht für das einmalige ganz und gar individualisierte Urerlebnis, dem es sein Entstehen verdankt, etwa als Erinnerung dienen soll, sondern zugleich für zahllose, mehr oder weniger ähnliche, daß heißt streng genommen niemals gleiche, also auf lauter ungleiche Fälle passen muß. Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen.
一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性 Verschiedenheiten を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念 Vorstellung を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形 Urform というものが存在するかのような観念 Abbild を与えるのである。
So gewiß nie ein Blatt einem andern ganz gleich ist, so gewiß ist der Begriff Blatt durch beliebiges Fallenlassen dieser individuellen Verschiedenheiten, durch ein Vergessen des Unterscheidenden gebildet und erweckt nun die Vorstellung, als ob es in der Natur außer den Blättern etwas gäbe, das "Blatt" wäre, etwa eine Urform, nach der alle Blätter gewebt, gezeichnet, abgezirkelt, gefärbt, gekräuselt, bemalt wären, aber von ungeschickten Händen, so daß kein Exemplar korrekt und zuverlässig als treues Abbild der Urform ausgefallen wäre.(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)
今の上の訳文は、柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』(1978年)の冒頭近く(手元の文庫本では、p.19)にて「哲学者の本」という題名で引用しているものである(訳者不明)。
独語にまったく疎い身として文句をつけるつもりは毛頭ないが、《観念 Vorstellung》、《観念 Abbild》と訳されているところだけに注意しておこう。前者は通常は「表象」(ラカン派的にはシニフィアンとされることもある)、後者は独英辞典をみると、「Abbild:image、picture、effigy、portrayal、simulacrum、copy、likeness、reflection」とある。訳語のなかにシミュラークルという語が出現しているのに注目したい。
さらに《すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen》などという文があったり、《差異性 Verschiedenheiten 》などという用語も出現する。
まるで20世紀後半のいわゆる「現代思想」のエキスのような文ではないか。
ここでニーチェに敬意を表しつつ、《すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する》を意訳して、《すべての思考は、同一でないものを同一化することによって、発生する》としておこう。
われわれは、思考にとって「AはAである」A est A ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。Si l’A est tant A que ça, qu’il y reste ! Pourquoi le séparer de lui-même pour si vite le rassembler ?(ラカンセミネール9「同一化」15 Novembre 1961)
さて最近の邦訳はどうなっているのか、とネット上で探れば次の訳文に行き当たったのでここに貼り付けておく。
それぞれの語は次の過程によってただちに概念となるのである。それぞれの語が成立の母体と仰いでいる一回限りの、徹底して個性化された根源体験のために、それぞれの語になにか記憶の役を果たさせようというのではなくて、多少とも似ている無数の事例に、すなわち厳密に考えれば断じて等しくはない、よってまったく不同の事例に、おのおのの語が当てはまらなければならないということによってである。あらゆる概念は等しからざるものの等値によって成立する。
一枚の木の葉が他の一枚とまったく同じだということが断じてないのは確実であるが、それと同じように確実に、木の葉という概念はこうした個性的な多くの差異を任意に棄て去ることによって、つまり相違点を忘却することによって形成されたものである。そしてこの概念は、自然のなかにはさまざまな木の葉のほかに、 「木の葉」そのものとでもいえるようななにかあるものが、すなわちあらゆる木の葉がそれに則って織られ、描かれ、測られ、彩色され、縮らされ、塗られるようななにかある原型が存在しているかのような観念 を呼びさますのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)
柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』の冒頭近くで、初期マルクスの「エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異」を論じるなかで、冒頭にかかげたニーチェ文を引用した後、次のように記している。
柄谷が直接には引用していない「すりきれたメタフォア」の箇所は、少し前に「真理は女である。ゆえに存在しない」において拾っている。
マルクスにとって、読むことは、このような「原形」としてエピクロスに対して、「差異性」としてのそれを見出すことである。哲学的真理が「すりきれたメタフォア」(ニーチェ)であるならば、逆にメタフォリカルに思考することこそ思考することなのだ。歴史的に累積された「厳密さ」を笑うような場において、哲学が根こそぎ揺すぶれれるのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)
柄谷が直接には引用していない「すりきれたメタフォア」の箇所は、少し前に「真理は女である。ゆえに存在しない」において拾っている。
真理とは錯覚である。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩である。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)
この箇所はロラン・バルトも引用している、《ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった》(『テクストの快楽』)。
さらにバルトから次の文を抜き出しておく。
彼は日ごろ“科学”を怪しいものとにらんでおり、その《無差異性》(ニーチェの用語)、その無=差異性を、非難していた。なにしろ学者たちはその無差異性ないし無関心をもって“法”とし、みずからをその“法”の検察官に任じていたのだ。けれどもその求刑は、“科学”を《ドラマ化する》(“科学”に差異の力、テクスト的効果を取り戻してやる)ことが可能となったときには、必ず取り下げられるのであった。当人たちの内部に、ある乱れ、わななき、狂者、妄想、屈折が検出されるような、そういう科学者たちが、彼は好きだった。(……)
いつもニーチェを思う。私たちは、こまやかさの欠如によって科学的となるのだ。――それとは反対に、ユートピーによって、私はドラマ的でこまやかな科学を思い描いている。それは、アリストテレス的命題をカーニヴァル的に転倒させることをめざし、たとえ一瞬間であっても、あえて、《存在するのは差異の科学だけだ》と考える、そういう科学である。(『彼自身によるロラン・バルト』)
われわれは、21世紀になっても、29歳のニーチェに実は誰もまったく届いていないのではないか、と疑わねばならない。とくに最近は「思い上がった科学的精神」の輩がウヨウヨしているのだから。なかんずく何の留保もなしにエビデンスなんたらといっている連中が(参照:エビデンスに基づく「科学的」精神)。
・科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht
・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung
・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)
…………
柄谷行人の言語をめぐる決定的洞察は、マルクスから来ているというより、ニーチェから来ているとしたほうがよい(参照:最も基本的なところから始めよう)。
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
もちろんニーチェの考え方はヘーゲルにすでにある、という観点があるのは知らないではないが、ほとんど掠った程度でしかないヘーゲルについてはこの際、無視させていただく。