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2017年10月9日月曜日

冥府にかかわる二種類の作家

すぐれた作家(あるいは芸術家全般)のなかにも、「冥府下り」の作家と「冥府からの途切れがちの声」の作家がいる、とわたくしは考えている。冥府とは、ラカン的にいえば現実界であり、シニフィアン外、言語外、象徴界外のもの、トラウマ的なものである。

意味作用 signification の彼岸、あらゆるシニフィアンの彼岸、…非意味の、もはや還元されえぬ、トラウマ的なもの…これがトラウマの意味である。

au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme (ラカン、S11、17 Juin 1964)
ファルス享楽とは身体外のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。

qu'autant la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)], – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

もちろん、ファルス享楽(快原理の此岸)、つまりファルス秩序(象徴界)内部に常にとどまっている書き手もいるだろうが、その書き手は本来「作家」とは呼べない。「知識人」たちが「作家」とは呼べないように。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)

「冥府下り」と「冥府からの途切れがちの声」とは中井久夫の表現である。

「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。

そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。

これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)

ここで中井久夫は、「冥府下り」/「冥府からの途切れがちの声」を、二十世紀前半の詩人、ヴァレリー・リルケ・エリオット/二十世紀後半のツェランを対比させている。だが、これは一般論であっておおむねそうだとしても、たとえば二十世紀前半の作家にも、あるいはそれ以前にも「冥府からの途切れがちの声」の作家はいる筈である。わたくしの狭い読書範囲では、ほとんどベケットのみを思い浮かべるだけだが。

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けなくちゃいけない、

だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのかな、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのかな、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのかな、扉の前まで、扉をあければおれの物語、だとすれば驚きだな、もし扉が開いたら、

そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けよう。

ーーベケット『名づけえぬもの』 安藤元雄訳

もっとも断片の叙述としての「冥府からの途切れがちの声」であるならば、すぐれた作家なら必ずある。

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

⋯⋯⋯⋯

 ところでドゥルーズはそのプルースト論で、三種類の機械ということを言っている。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)

プルーストには、ロラン・バルトがいったように、なんでもある。そして、欲望(エロス)の作家としてのプルーストと欲動(冥府下り・冥府からの途切れがちの声)の作家としてのプルーストがいる、という言い方ができる。

心情の間歇」の章の叙述は、あきらかに「冥府からの途切れがちの声」としてのプルーストである。「冥府からの途切れがちの声」とは、ドゥルーズ表現の「強制された運動の機械」と近似している。

ラカンにとってテュケーという現実界は、《書かれぬことを止めぬもの C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire》(ラカン、S20)である。これが、(わたくしの理解する限りで)「強制された運動の機械」である。

ラカンは、アリストテレスの語彙に依拠しつつ、オートマン/テュケー(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])の対比を論じて、シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」と区別している(S11)。

そしてテュケーについての定義は次の通り。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11)

ーーかつまたミレールのいうとおり、《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'unーープンクトゥム=テュケー)

ここでオートマン/テュケーの最も簡潔な注釈を掲げよう。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。(ムラデン・ドラー「喜劇と分身」2005年)

このムラデン・ドラーの記述にのっとれば、欲望の作家であることは必ずしも悪いことではない。欲望の作家として書いていても、象徴界(シニフィアンのネットワーク)の裂目、テュケー(現実界)出会う筈なのだから。

ドラーの文は、バルトの次の文の注釈としても読める。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

ーー享楽とはもちろん現実界の審級、ファルス秩序(象徴秩序)の裂目に現れるものである。

《人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない》(「囚われの女」)と書くプルーストは、そのままとれば、エロス(欲望)の作家である。だが、プルーストはその欲望の裂目との出会いを常に叙述している。それが彼の冥府下りである(上述したように、さらに「心の間歇」の章のプルーストは、冥府からの途切れがちの声の作家である)。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)

そもそもレミ二サンスとは、テュケーとの遭遇である。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

トラウマ≒レミニサンスとは、中井久夫のトラウマの定義とともにわたくしは読む。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

とはいえ人生の初期に、テュケー・現実界、つまり冥府に下り切ってしまった作家もいる。その作家たちは欲望の審級を書き綴ることは稀である。つまりその作家はもはや冥府下りを書かない。世界には「冥府からの途切れがちの声」のみの作家がいる。それが、たとえばツェランであり、ベケットであるだろう。

わたくしにとって、すくなくともある時期までのヴェーベルンは、冥府からの途切れがちの声の作曲家である。この特徴が、シェーンベルクやベルク(冥府下りの作曲家)と異なる。

◆Anton Webern - Six Bagatelles for String Quartet




すぐれた読み手(あるいは批評家)側にも、冥府下りの作家・芸術家(あるいはその表現箇所)を珍重する場合と、冥府からの途切れがちの声の作家・芸術家を珍重する場合があるようにみえる。

一般に「冥府からの途切れがちの声」は敬遠されがちである。わたくしは作家の場合、耐え難くなることが多い。

夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ
ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ぼくらは宙に墓をほるそこなら寝るのにせまくない
ひとりの男が家にすむその男は蛇どもとたわむれるその男は書く
         
ーーパウル・ツェラン「死のフーガ」 飯吉光夫訳

音楽の場合は文学作品よりはいくらか「冥界からの途切れがちの声」に触れようとする機会が多い。だが一般公衆は、やはり「冥府の声」を避けようとするのだろう。欲望の作曲家(あるいは冥府下りの作曲家)として捉えられることの多い作曲家シューマンの、狂気に陥る直前に書かれた、最晩年の「冥府からの途切れがちの声」がそれなりの頻度で演奏されるようになったのは、ごく最近のことである。

◆Schumann - Gesäng der Frühe - I. In ruhigen tempo、OP.131


いま必要なのは冬のおとずれをつげる歌ではない。 冬にそなえて深く穴を掘り、 武器をたくわえ、 その時までに地下に姿を消すことだ。 冬眠するためではない。 根をはりめぐらして、やがて地表を突きやぶるために。(高橋悠治『ロベルト・シューマン』)