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2018年1月7日日曜日

魂のエクスタシー的開け

まず「魂のことをする」で引用したドゥルーズの二つの文を再掲する。

アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ドゥルーズのいう文脈からいえば、「魂のことをする」とは「アリアドネのことをする」である。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…(Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

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魂、心、精神という、一見類似した言葉をわれわれはもっているが、「魂のことをする」と「精神のことをする」「心のことをする」と言ってみると、かなりニュアンスが異なる。敢えて言ってみれば(わたくしの感じでは)、「精神」とは頭部、「心」とは胸部(心臓)にかかわる。もしそうであるならば、「魂」とはどこにあるのだろうか? 下腹部ーー場合によっては子宮?--でなければ、たぶん宙に漂っているのである。

※ヒステリーという語は、古典ギリシア語で「子宮」を意味するギリシア語: ὑστέραに由来する。 「体内で子宮が動き回る婦人病」(ヒポクラテス)。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

女は子宮で思考する(場合がある)。魂で思考するのかもしれない。すくなくとも標準的な男と違って身体で思考するのである。

ここで誤解を招かないようにーーフェミニストのおねえさんがたの逆鱗に触れないようにーー次のように引用しておかねばならない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)
私は私の身体で話す。私は知らないままでそうする。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。

Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

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以前「プシュケーとソーマ」にて曖昧なままで記したが、細部を除けば、基本的には次のように図示できる。


独仏語には直接的には「心」に相当する語はない。

したがって、たとえばフロイト邦訳では、上の図の「魂 seele」が「心」と訳されたりもする。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

ウィトゲンシュタインのいうように《語の意味とは、言語内におけるその用法である》(『哲学研究』)のだから、魂=心であってもとくに拘るつもりはないが。

いずれにせよ、欲動とはソーマとプシュケーの境界にあるものである。

スピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っている。『エチカ』第三部「情動 affectus」論にはこうある(畠中訳)。

自己の努力が精神 mentem だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神 mentem と身体 corpus とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(E T H I C E S) 

現在、英語圏では、この「衝動 appetitus」は  Trieb と訳されることが多い。すなわち「欲動」である。

たとえば注釈者たちによって次のように記述されている。

・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb

スピノザの衝動 appetitus が身体の欲動 Körper Triebであるならば、これこそラカンが《欲動の現実界 le réel pulsionnel》と呼ぶものである。

そして《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》とは、身体の欲動が人間の本質とすることができる。

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わたくし自身は「魂のことをする」という表現を使うとき、「欲動」にかかわる身体的なことをイメージして使いたい気がする。「心のことをする」という表現を使うとするなら、それは「欲望」にかかわるイメージがある。「精神のことをする」というなら「知」「主体」にかかわるイメージをもつ。

ラカンは次のように言っている(以下の文は《私は欲動 Trieb を、享楽の漂流 la dérive de la jouissance とする》(ラカン、S20) 》を念頭において読もう)。

主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない(ラカン、E.666,1960)
主体自体は、享楽とは大きな関係はない Un sujet comme tel n'a pas grand chose à faire avec la jouissance(ラカン、S20、16 Janvier 1973)
思考は、魂-身体にたいして外立の関係しかもたない。la pensée n'a à l'âme-corps qu'un rapport d'ex-sistence(ラカン、テレヴィジョン、1973)

最後の文で、ラカンは《魂-身体 l'âme-corps》とほぼ等価なものとして扱っていることに注目しておこう。

魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。
Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.(……)

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られていない賢者がいる。ーーその名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser - der heisst Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「肉体の軽侮者」)

ここではニーチェにはこれ以上触れない。いや最晩年の次の文をもうひとつ引用してはおこう。

肉体は、いしにえの「魂」よりも、驚くべき思想(精神活動 Gedanke)である。der Leib ist ein erstaunlicherer Gedanke als die alte »Seele«.(ニーチェ『権力への意志』659番)

さてラカン文にもどる。《思考は、魂-身体にたいして外立の関係しかもたない》とは、すこしわかりにくい表現だが、ハイデガー起源の「外立 ex-sistene」--《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(S22)ーーを想起すれば、思考はその限界領域(あるいは非一貫性・非全体pastout)において、エク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)が起り、魂-身体の、エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen(エクスタシー的開け)があるという風に捉えうる。

たとえば、デュラスの次の文の「愛するという感情」に「魂」を代入してみると、上に記したこととピッタリくる。

愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス「死の病い」 )’

さらに言えば、冒頭近くに「魂のことをする」とは「アリアドネのことをする」としたが、これは「女のことをする」ともしうる。それについては「ひとりの女とは何か?」を見よ。

もっとも言語を使用することを宿命づけられたファルス秩序の住人である人間‐主体(言語によって分割された欲望する主体$)は、これらの世界の論理の罅割れ(象徴界外、言語外のこと)をほとんど思考しえない、《主体自体は、享楽とは大きな関係はない Un sujet comme tel n'a pas grand chose à faire avec la jouissance》(ラカン、S20)

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

いま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。ここでの"jouissance de l'Autre"とは、「身体の享楽」、「女性の享楽」のことである。

大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 ) 
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdfーー女性の享楽と身体の出来事