2018年1月27日土曜日

ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである

「固着」シリーズ第四弾である。

このところ記そうとしているのは、曖昧なまま流通しているサントーム概念の脱神秘化の試みである。

後期ラカンの核心概念「サントーム」の、二種類ある意味のひとつは、フロイトの「固着」と等価であるのを「聖多姆と固着」で示した。

なによりも先ず、身体の出来事が、ラカンによるサントームである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)  

ーーこれは、フロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』)とほぼ等価な意味合いをもつ簡潔な「翻訳」である。

サントームのもうひとつの意味は、父の名、あるいは「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」以降のラカンの「クッションの綴じ目 point de capiton」である。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームと定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)

神秘的に語られすぎる「女性の享楽」も実際は、サントーム、つまりフロイトの固着にかかわる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、PDF

⋯⋯⋯⋯

以下は、この固着シリーズの一環として、以下のジャック=アラン・ミレールの発言をめぐる当面の資料列挙である。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

さてフロイトを引用してみる。

◆フロイト、1940年
生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の 対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekte と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。 (⋯⋯)

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)


◆フロイト、1916-1917年
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講、私訳)

フロイトは比喩による説明もしている。

人類の歴史の初期にはしばしば起こったことだが、全住民が居住地を立ち去って新しい場 所を探し求めるとき、我々が確かめうるのは、彼らのすべてが新しい土地に到着しなかったことである。他の喪失はさておき、小さな集団あるいは移住民の一群は、途中で立ち止まり、 その場所に定住する。一方で本体の集団は新しい土地に向かってさらに前に進んで行く。 (『精神分析入門』第22 講、私訳)

第23 講には次のようにある。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917


◆フロイト、1937-1939

第一に、神経症の起源は、必ず幼児期における最初期の印象に戻る。第二に、これはトラウマ的なものとして識別される。なぜなら、ひとつあるいはそれ以上の強烈な印象に間違いなく戻るために、通常の仕方では取り扱えない影響をもつから。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39、私訳)
トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。…

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すな わち忘れられた経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。…

(このトラウマを扱う)ポジ面の試みは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma、反復 強迫 Wiederholungszwang の名のもとに要約しうる。…これは動かしえない個性の徴 unwandelbare Charakterzüge と呼びうる。…

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。 我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、制止 Hemmungen と恐怖症Phobien に収斂しうる。(フ ロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1937-39)


固着にかかわる置き残り(居残り)とは、フロイトの別の表現なら「残存現象」である。

◆フロイト、1937

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

フロイトは《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》としているが、この残存現象として居残った対象aが、欲動の蠢きの遺留物であり、始末に負えない「異物」としての機能を果たす。

ーーラカンの女とは、「異物としての身体」のことである(参照:ひとりの女とは何か?

そしてラカンのセミネール23にある《文字対象a (lettre petit a)》という表現が、この残存現象に相当するとわたくしは考える。

その意味では、中期ラカンにもすでにある。

この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction (ラカン、S10、6 Mars l963)

どんな機能かといえば、この《欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけ》(S10)であり、究極的には原マゾヒズムと合流する(参照:真珠貝と砂粒

これがフロイト曰くの、残存現象としての《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》 のことであるだろう。

さらに原防衛にかかわる固着の叙述をも掲げておく。

もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

何に対して防衛するのか。原トラウマに対しての防衛である。だが完全には防衛しきれない(参照:人はみな外傷神経症である)。

ここで、このところ繰返して引用しているが、1999年時点での限りなくすぐれた注釈をやはり再掲しておこう。

我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野外に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


そもそも後期ラカンを読解するミレールの考え方においては、《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)である(参照:「人はみな妄想する」の彼岸

社会的つながりとは欲動(享楽)の審級ではなく、欲望の審級にあるものである。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. (ラカン、E825)

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フロイトの固着、原抑圧概念があらわれた最初期の叙述もふたつばかり引用しておこう。

◆フロイト、1911
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)

◆フロイト、1915
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。(フロイト 『抑圧』1915 年)

※ララングとサントームのかかわりーー《サントームは、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle》(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)ーー、つまりフロイトの固着とのかかわりについては、ここでは記述から外した(参照:ララング定義集)。

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※付記

松本卓也氏による、ミレール起源の「Le signifiant tout seul ひとつきりのシニフィアン」も、結局、フロイトの固着にかかわる(別に投稿しようと思ったがここでいくらかの資料を掲げておくだけにする)。

「サントーム le Sinthome」……それは 「一のようなものがある Yadlun」と等価である(ジャック=アラン・ミレール2011, XIV. le point de capiton de Montpellier / tripartition de consistances cliniques

このY'a d'l'Unが「Le signifiant tout seul 」である。

そして「この一のようなものがあるY'a d'l'Un」ーー「Il y a de l'Un の短縮形」ーーを、わたくしは次の文とともに読む。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

そう読むのは、Hélène Bonnaudの注釈に依拠する。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体と享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

松本卓也の『人はみな妄想する』から、「ひとつきりのシニフィアン」をめぐる、おそらく核心箇所を掲げておこう。わたくしはこの書が手元になく未読のため、「偽日記」からの孫引用である。

…自閉症者がもちいる常同的・反復的なシニフィアンは、原初的な言語であるララング(=自体性愛的な享楽をまとったトラウマ的なシニフィアン)そのものを私たちに呈示していると考えられる。自閉症者は、いわばララング(S₁)というトラウマ的なシニフィアンに出会い、それ以降、言語(S₂=知)を獲得しないことを自ら選択し、ララングの場所に立ち止った子供たちである。
⋯⋯⋯逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)