このブログを検索

2018年4月11日水曜日

「哲学は映画に負けた」

蓮實重彦は、1996年に「哲学は映画に負けた」という要約できることを言っている(浅田彰に言わせている)。浅田彰の発言の核は、《ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです》《映画が哲学を完成してしまった》。

他方、蓮實重彦発言の核は次のものである。

彼(ドゥルーズ)は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。(『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」

「潜在性」と「顕在化」についてのいくらかの詳細は、「「潜在的なもの」と「潜在的対象」の相違」を見よ。ここでは次の文だけを掲げておく。

可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。

反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。(『差異と反復』)

潜在性(潜在的なもの)とは、ラカン派語彙に変換すれば、穴Ⱥ(原固着 Urfixierung・原抑圧 Urverdrängung)としての対象aである。そしてそれは、フロイトの遡及性 Nachträglichkeit 概念にかかわり、最も簡潔に言えば次のようなことである。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

このあたりは説明しだすととても長くなるので割愛するがーー、つまり今は飛躍して記すが、ここでの文脈上でのゴダール自身の核心発言は(少なくとももわたくしにとって)次のものである(参照:「形式・イマージュ・無」)。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(『(複数の)映画史』「4B」)

このゴダール文に依拠して、蓮實と浅田の発言を混淆させて言えば、ドゥルーズは「無」を解説したが、ゴダールは「無」を生きている、ということになる。

ラカン派にとっての無とは、「斜線を引かれた主体$」と「対象a」にかかわる。

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Valueーー主体と無

ーー主体$と対象aとは、カントの「超越論的主観」と「超越論的対象」とほぼ相同的なラカンの表現であるが、これもまた詳細を省く(いくらかの参照としては、前者については「染みとモンタージュ」、後者については「主体と無」を見よ)。

ここではイマージュに大きくかかわる次の文だけを列挙しておく。

イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
イマージュは、見られ得ないものにとってのスクリーン(覆い)である。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


ゴダールの発言に戻る。

【映画というものがどういうものかをおおい隠す作品】
 私はトリュフォーとは、金に関することも原因のひとつとなって、完全に……決定的に喧嘩別れしたのですが、でも私はあるとき彼に、金に関するわれわれの間のそのやりとりを思い出させながら、こう言ってやりました。「君の新作(『アメリカの夜』)を見たよ。でもあの映画には、欠けているカットがひとつある。ぼくは君が撮影期間中にジャクリーン・ビセットの腕をとってパリのレストランに入るのを見たけど、そういうカットをあの映画に入れるべきだよ」と。〔……〕 彼はほかの人については平気でいろんな物語をでっちあげているにもかかわらず、自分とジャクリーン・ビセットのそうした関係を示すカットは、ひとつも撮ろうとしなかったのです。

 彼は私の言葉に答えようとしませんでした。そのあとはどんな接触もありません。でも『アメリカの夜』がある年のアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞したのは、偶然からじゃありません。なぜなら、あの映画はまさにアメリカ的な映画だからです。〔……〕 アメリカの連中がこの映画に賞を与えたのは、この映画が、映画というものがどういうものかを──明らかにするように見せかけながら──見事におおい隠したからです。人々には理解できないような魔術的トリックをつかい、きわめて快いと同時に不快でもある世界をおびきよせたからなのです……人々にむしろ、自分はそうした世界には属していないという安心感を与え、それと同時に、映画を見るたびにきちんと5ドル払うことの喜びといったものを感じさせたからなのです。(「ゴダールートリュフォー書簡集」序文)

ゴダールのトリュフォー批判は、映像作家とは本来、無を顕在化させるものであるのに、ある時期のトリュフォーはそうでなくなった、ということではなかろうか。

ラカン派語彙で言い直せば、無としての主体$(要素なき場)、あるいは主体構成の残余である対象a(場なき要素)を顕在化させるのが作家(映画作家)だということである。

これはバルトの言い方では次のようになる。

作家はいつもシステムの盲点(システムの目に見えない染み la tache aveugle des systèmes :ラカンの 対象a)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。(『テクストの快楽』1973年)

ここでムラデン・ドラーの表象論から引いておこう。

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の何ものかの刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar「Anamorphosis 歪像」)

すなわち表象あるいはイマージュとは常に歪像である。なぜなら対象aとしての染みが表象には書き込まれているのだから。ドラーのいう「主体の何ものかの刻印」とは対象aの刻印という意味である。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。シミ、すなわち「対象以上の対象」(対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11) (ジジェク、パララックス・ヴュ―、私訳)

ところでゴダールは次のようにも言っている。

ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

このネガとは、ゴダールの主要テーマの一つでありうる「分身」にかかわる(参照:染みとモンタージュ)。

・分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。(ムラデン・ドラー1991, Lacan and the Uncanny、PDF

・分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象aである。(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness)

かつまたヘーゲルの「ネガ(否定的なもの)」とは、世界の夜、無にかかわる用語である。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)
死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

⋯⋯⋯⋯

以下、冒頭にかかげた蓮實重彦と浅田彰発言の前後の箇所も含めて掲げる。

蓮實)孤島のロビンソンが、なぜきれいな奥さんと結婚して、子供をふたりもつくるの(笑)。これはもう無頼漢ですよ。それで、浅田さんはドゥルーズが「偉大な哲学者」だと、もちろん誠心誠意おっしゃているんだろうけれども、どこかずるいと思ってない?

浅田)そりゃ、思ってますよ(笑)。

蓮實)あんなことされちゃ困るでしょ。この20世紀末にもなって、いけしゃあしゃあとあのような著作を書いて、家族なんてものはなくていいというような死に方をする。あの図々しさというか、いけしゃあしゃあぶりというものは、哲学者に必須のものなんですか、それとも過剰に与えられた美点なんですか。だってあんな人が20世紀末にいるのは変ですよ。ぼくはデリダよりドゥルーズのほうが好きですけれども、その点では、デリダにはそういうところは全くなくて、一生懸命やっている。フーコーがいるというのもよくわかる。しかし……。

浅田)フーコーは同時代にドゥルーズがいるから自分が哲学者だとは決して言わなかった。哲学者はドゥルーズだから。

蓮實)いいんですか。ああいう人がいて、浅田さん。

浅田)あえて無謀な比較をすれば、ぼくはどちらかというとガタリに近いほうだから、ああいう人がいてくれたのはすばらしいことだと思いますよ。

蓮實)しかし、彼はそれなりにひとりで完結するわけですよ。許せますか、そういう人を(笑)。ぼくは、浅田さんがドゥルーズを「偉大な哲学者」だと言っちゃいけないと思う。そうおっしゃるのはよくわかりますよ。わかるけれども、やっぱり否定してくださいよ。

浅田)でも「彼は偉大な哲学者だった」というのは、全否定に限りなく近い全肯定ですよ。否定するというなら「最も偉大な哲学者」として否定すべきだろう、と。

蓮實)どうしてきっぱりと否定しないの? さっき言ったことだけど、とにかくドゥルーズは確実にある問題体系を避けているわけです。それを避けることで「哲学者」としてあそこまでいったわけですからね。そうしたらば、それは悪しき形而上学とはいいませんけれども……。

浅田)「偉大な哲学」である、と。

蓮實)浅田さんが「偉大な哲学者」とおっしゃることが全否定に近いということを理解したうえでならばいいけれども、その発言はやはりポスト・モダンな身ぶりであって、いまでははっきり否定しないと一般の読者にはわからないんですよ。

浅田)いや、一般の読者の反応を想定するというのがポスト・モダンな身ぶりなのであって、ぼくは全否定に限りなく近い全肯定として「ドゥルーズは偉大な哲学者だった」と断言するまでです。

ただ、たとえばこういうことはありますね。さっき言われたように、ドゥルーズとゴダールは、言葉のレヴェルにおいては非常によく対応する。ただ出来事だけがある(eventum tantum)というのは、たんにイマージュがある(juste une image)ということですよ。しかし、ドゥルーズは、ゴダールがそのイマージュを生きているようには、出来事を生きていない。ぼくはゴダールは絶対的に肯定しますけれど、ドゥルーズは哲学者として肯定するだけです。

蓮實)うん、そこを言わせたいのよ(笑)。

浅田)そんなの自分で言ってくださいよ(笑)。

蓮實)だから浅田さんにとっては、ドゥルーズは一般的に偉いけれども、特異なものとして見た場合はやはりゴダールを取るでしょう。

浅田)絶対にゴダールを取ります。

蓮實)そうしたらば、ドゥルーズに対してもう少し強い否定のニュアンスがあってもいいと思う。

浅田)でも「偉大な哲学者」というのは最高に強い否定のニュアンスでもあるわけですよ。たとえばニーチェは哲学者ではないが、ハイデガーは哲学者である。それで、ゴダールがニーチェだとしたら、ドゥルーズはしいてどちらかといえばハイデガーなんです。

蓮實)ただし、ドゥルーズにとっての美というのは、ハイデガーのそれと全く違いますけれどもね。それともうひとつ、やはり彼は20世紀の両対戦間からその終わりまでに至って哲学は負けたと思っているのは明らかです。何に負けたかというと、実はゴダールではなくて、ジャン・ルノワールに負けている。ジャン・ルノワールが、風の潜在性からこれを顕在化することをやってしまっている、と。

浅田)ベルグソンを超えてしまったんですね。

蓮實)そう、超えてしまった。ぼくがいちばんドゥルーズに惹かれるのは、そこまで見た人はいなかったということです。不意にルノワールが出てくるでしょう。それでルノワールに負けているんですよ。おれの言ったことをもう全部やってしまている、と。

浅田)『物質と記憶』とほとんど同時に映画が生まれた。で、映画が哲学を完成してしまったんですね。

蓮實)そうです。それも、だれが完成したかというと、ゴダールではなくて、ルノワールなんです。それでもなお「偉大」ですか。

浅田)だから、たかだがそんな哲学だといえばそれまででしょう。でも、ほかにそんな哲学者がいます?(笑) フーコーは、自分は歴史家だと言わねばならなず、デリダだって、自分は物書きだと言わねばならない。しかし、ドゥルーズは単純に、私は哲学者であると言ってしまうんですからね。そして現にハイデガー以後はドゥルーズしかいないでしょう。(『批評空間』1996Ⅱ-9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人))

⋯⋯⋯⋯

ま、わたくしに言わせれば、哲学が映画に負けている、あるいは芸術に負けているのは、わかり切ったことである。

《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的記憶の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的記憶は、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


ただし哲学や批評は、「理解可能性という貧しい領土」にとどまって主に潜在態という不可解なものを探る作業であるだろう。

浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 (平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)


ラカンに言わせればこうなる。

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977)

精神分析が(臨床治療以外の分野で)真の芸術にかなうわけがないのである。

上の発言の10年前には次のように言っている。

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche(同上)

同時期のセミネールⅩⅢにおいては次の通り。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

そしてラカンから学んでいる「哲学者」アラン・バディウに言わせればこうなる。

ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら there can be no philosophy after Lacan unless it has undergone the trial of Lacanian ‘anti-philosophy(アラン・バディウ、pdf)


最後に「作家の手の爪の血」から再掲しておこう。

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites

ーー右側が、浅田彰のいう「理解可能性という貧しい領土」である。