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2018年4月15日日曜日

ハートとバラ




多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)

ーーいやあ、そもそも表象にはファルスプラスとファルスマイナス以外にあるのかね、表象(シニフィアン)というか、すくなくとも愛の言語に。愛の言語と言うが、つまりエロスの言語、すなわち生の言語に。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus 」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。

Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ーー上の画像の赤いマニュキアの親指ってのは、ファルスプラス2本だよ。女性はすくなくとも2本は確保しておくべきだね

S. Andre と J. Quackelbeen は、どんなエロス(愛)の辞書の研究も、避け難く次の結論に達すると主張する。すなわち、どの語も何かエロティックなものを示すのに使われうる。「無」という語でさえ女性器を表しうる、と(Andre, L'Ordre du Symbole, 1983、Quackelbeen, Zeven avonden met Jacques Lacan, 1991)。

我々はこの見解を別の観察を以て裏付けることができる。すなわちこの過程は裏返せない。基本シニフィアンは、実質的にすべてのシニフィアンによって暗示されうるが、シニフィアン「ペニス」だけはそれ自体のみに制限される。Gorman は全く異なった観点の研究から同じ結論に達している。彼はいわゆる「身体語」は非常に広い隠喩的使用を許容すると結論づける(古典的例として例えば「手」)。ただし一つの例外がある。性器の固有語はそれ自体しか徴示しえない、と(Gorman, Body Words, 1964-65)。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

女性のハートとか花への愛とは結局、ナルシシズムなんだろうな




もちろんナルシシズムが悪いわけではない。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

フロイトに準拠すれば、女性の場合は基本的に、母との同一化があるのだから、ナルシシストになるのはことさら当然の成り行きだ。

女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわい、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。

どちらの相も、後に訪れる生に多大な影響を残すのは疑いない。…しかし前エディプス期の相における結びつき(拘束 Bindung)が女性の未来にとって決定的である。(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年、私訳)

そして肝腎なのは次のことだ。

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen.(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

こうして女性は母から分離できやすい。他方、男は(同性愛者以外は)母との同一化はない。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

いやあ、オトコってのはどうしようもないよ。




quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)




構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽という本源的状態を再創造しようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスとタナトスの混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年ーー「母の三界」)




バラの花というのは実に美しいよ、最近になってようやくその「真の美」がわかるようになったな。齢をとったせいかな

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年ーー「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」)
誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

この「睡眠」とはそのままとらなくてよいのであって、死の枕元にあったとされる「草稿」の「睡眠」だ。 バラとはブラックホール、沈黙のん死の女神の象徴だよ、まさに「魅惑と戦慄 fascinans et tremendum」だね、

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


墓碑銘、リルケ

薔薇よ、おお、きよらかな矛盾よ
あまたの瞼のしたで、だれの眠りでもないという
悦楽 lust よ

(生野幸吉訳だが、ばら→薔薇、よろこび→悦楽に変更)

Die Grabschrift、Rilke

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.




悦楽Lustはあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。

so reich ist Lust, dass sie nach Wehe durstet, nach Hölle, nach Hass, nach Schmach, nach dem Krüppel, nach _Welt_, - denn diese Welt, oh ihr kennt sie ja!(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

若いころは、バラは黄色だけだったな、なんとか堪えられるのは。

(ゴダール、『(複数の)映画史』)

黄色いバラの花言葉(の一つ)は「薄れゆく愛」。フランク・シナトラは女に飽きてくると、黄色いバラをおくったそうだけどさ。カッコいいねえ