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2018年9月8日土曜日

静止画像と女性の享楽

身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme,(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011 )

ーーより詳しくは「女性の享楽と自閉症的享楽」を見よ。

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以下の Liora Goderの小論(2010年)は、「女性の享楽」について事例をあげつつ実に明瞭に記されている、とわたくしは思う。2年ほどまえその一部を私訳したが、もうすこし長く訳してここに掲げる。

なお、下記の文私訳の途中で「静止画像」と記したのは、わたくしであり、これはある意図があってこう補足した(今、わたくしの関心は静止画像ということもある)。静止画像とはラカンの語彙では、フロイト用語の隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )としての「スナップショット l'état d'instantané 」である(参照)。

以下の文はトラウマ的静止画像のせいで男に惚れるという話とも読めるだろう。

いくらか文脈が異なるが先にこう引用しておこう。

情熱的な愛は、遠い昔に憎悪を克服したもの、あるいは憎悪に貪り喰われることを克服したものでありうる。

Wir hätten erwartet, daß die große Liebe längst den Haß überwunden hätte oder von ihm aufgezehrt worden wäre.(フロイト『強迫神経症の一例についての見解-鼠男』1909年)

さて Liora Goderの『What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?』からである。

昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事を食べるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。

少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。

二人はそのようにして向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空虚で凍りついた両眼(≒静止画像)が、彼女を眼差している。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母がその場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。

この光景は子供時代に何度も繰り返された。彼女は思春期をへて妻になり母になり仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私を見据える空虚の眼差しを置き残したあのとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。
魅力ある愛らしい若い乙女に成長した彼女は兵役に服し、ハンサムで感じのよい知性あふれる青年たちに取り巻かれる。彼女はそのなかの数人に惹きつけられた。でも誰を選んだらよいのかわからない。ひとりがダンスへの愛を語り、ある晩彼女をダンスクラブに誘った。彼女はとても喜んで承諾した。かすかな不安を抱きながらも。彼女は自分のからだとうまく馴染んでいないのを知っていたから。重くてこわばっている躰だと感じていた。でも彼女は彼と一緒に踊りにいく。

底から響きわたるリズミカルで耳を聾する音楽に領された満員のクラブ。彼女は彼と向かい合って動きはじめる。恥ずかし気に目をあげて彼の目をみる。彼は微笑む、ビートに合わせて踊りながらずっと彼女に微笑み返している。だんだん彼のからだはリラックスして音楽に没入してゆく。目が静かに閉じる。

彼女は彼を見つめ続けるのを止められない。彼の顔が移り変わってゆくのを凝視する。彼は踊りのなかに消滅してゆき、赤ちゃんのような表情がその顔に現れる。母乳を飲みおわったばかりの母の胸で眠りに落ちる赤子の顔。満腹になって享楽に満たされたかのように彼は意識を喪う。痙攣した顔。

これが対面した男の顔に現れたのだ。彼女は魔法にかかったように眩惑された。彼はすばらしく踊る、完全に踊りに集中して。彼はもはや彼女を見ない。誰をも見ない。彼は誰にもつながっていない。彼は別の世界のなかにいる。彼女は恋に落ちて結婚する。

数年後、彼女は分析セッションのあいだに、あるパーティで軍隊時代の彼女への求婚者の一人に駆け込む。次のセッションで、彼女の人生のあの時代のことを想い起こす。そして自問する。私を取り巻いたあれらの男たちのなかで、どうしてあの男を選んだのかしら。彼女は沈黙する。その後こう言う、「彼の踊り方のせいだわ、それで彼のことに目が眩んだんだわ」。ふたたび沈黙におちいる。しばらくして「彼は母を想い出させる。けれどどうな風にかは正確にはわからない」。もうひとつの沈黙。そして分析家と分析主体(患者)は同時に言う、「あれは、昼ごはんの時の台所テーブルの母の眼差しだった」。
話は理想的で得心のゆく母のイメージで始まる。けれども突然この母のイメージはどこかに消え去り「女性の享楽」が剥き出しのまま露顕する。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は奈落の底へと消滅し、会話から完全な外部、あらゆる絆の彼方、すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。

この小さな女の子の「女性の享楽」との遭遇はトラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を展開させる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体の解任をした母)を主体として位置づけようとする。

何年も後のわたしたちの若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味を結びつけることを可能にした。

少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽(ファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」=女性の享楽)との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に導いたものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の瞬間だった。

彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。

目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に結びつける特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。

しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。

このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。
この事例では二つの点が興味深い。

第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に刻印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるということをわたしたちに理解させてくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。

第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって衣装を着せられていたのである。(What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? by Liora Goder, pdf, 2010年, (Re)-Turn: A Journal of Lacanian Studies)

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※付記

上の文に出現するファルス化された対象aとは、見せかけの対象a、囮としての対象aである。他方、女性の享楽とは、無、空虚、穴としての対象a、あるいは穴=トラウマȺの原穴埋めシニフィアンS(Ⱥ)としての対象aである(S(Ⱥ) とは初期フロイトの「境界表象Grenzvorstellung」 概念とほぼ等置できる[参照])。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ミレール、L'être et l'un 2011ーーS(Ⱥ)と「S2なきS1」
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968ーーモノと対象a
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。(Lacan、1976、 AE573)
女性の享楽は非全体 pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20、09 Janvier 1973ーー S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴

 以下、「男女間の去勢の図」より。




− φが無、穴(トラウマȺ)としての対象a、 φ がヴェール(見せかけ・囮)としての対象aである。

セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

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ところで人間にとって原トラウマあるいは原不安に近似したものは何なのか?

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』)

あるいは《母を見失う Vermissens der Mutterという外傷的状況 traumatische Situation》(同上)

不安とは、寄る辺なさ Hilflosigkeitの 状況、乗り越ええない危険 danger insurmontable 状況への応答である。(ラカン、S10, 12 Décembre l962)

今「寄る辺なさ Hilflosigkeit」と訳したが「無力」とも訳される。