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2019年1月23日水曜日

欲求要求欲望の弁証法のお釈迦

そんな古い話をいまさら、って言ったらシツレイになるかもしれないけど、「欲求要求欲望の弁証法」ってのはほとんどお釈迦になってる筈だよ。ラカンあるいはすくなくとも現代ラカン派が「リビドー固着」を強調しだして以降は(参照)。

それは、《セミネール10「不安」以降、⋯⋯かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である》(ミレール、2004)となったのと同様。

これは鏡像段階モデルが否定されたのと同じ流れのなかにある。

光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…

私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)
(鏡像段階モデル図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


まず古い解説書を読まないことだな。そもそも、あれって額面通りとってしまったらイミフだよ。

欲望désirは…境界 margeである。すなわち愛の要求 demande d'amour から、欲求の必要性 exigence du besoinを差し引いた結果 résultat de la soustractionである。(ラカン、S5、07 Mai 1958)
欲望は、満足への性向 appétit de la satisfaction でも、愛の要求 demande d'amour でもない。二番目のものから最初のものを差し引くこと soustraction du premier à la seconde から生ずる差異である。(ラカン、ファルスの意味作用、E691、1958年)

で、差し引きして、欲望=愛の要求ー欲求だとして、そのあたりの三文解説書は額面通りに取っているのかもしれないけど、欲望に欲求が含まれていないわけないからな、--《どうやって欲望するというのかね、欲求から原材料を借りてこずに comment ferions-nous nos désirs, si ce n'est en empruntant la matière première de nos besoins ?》ーーこれどこで言ってたかな、ラカン。たぶんセミネール4だと思うけど、いまは確かめないまま。


以下、半年ぐらい前にテキトウに訳した(たぶんかなりイイカゲンなところがあるけど見直さないまま)ミレール2004年の注釈を貼り付けておくけど、要するに1962年以降はリビドー固着が肝腎。むかしの古典的ラカンはサヨナラ、ということだけが分かればいい、というレベルで読むべし。

後半の愛と不安の箇所は、あれだけじゃなく1970年以降さらなる転回があるし、ボクもいまだよく分からない箇所があるから、いままで一度もブログには貼り付けていないけど、あくまで参考として掲げとくよ。

…………

欲望と要求の弁証法 dialectique du désir et de la demand とは何か? 注意しなければならない。この弁証法とは、欲求催促 poussée du besoinから始まり、この要求のパレードdéfilés de la demandeを通してシニフィアンに出会うという差引き déductionなのである。…

初期ラカンの教えにおいては、欲求と要求の遭遇の残余が欲望である le reste de la confrontation du besoin et de la demande, c'est le désir。これはいまだ徴示的機能 fonction signifiant である。換喩としての徴示的連鎖 chaîne signifiante comme métonymique である。…不安セミネール10(1962-1963)以前のラカンの欲望は、リビドーの徴示的アウフヘーベン Aufhebung signifiante de la libido に相当する。だが不安セミネールでは、リビドーはまったく異なったものになる。…リビドーは徴示的残余 reste signifian ではない。…リビドーは逆説的な器官organe paradoxalである。

…この残余の器官reste organe、それは弁証法に対立する。それは欲望の残余 reste désir ではない。そうではなく、享楽の残余 reste jouissance である。アウフヘーベンに反逆したままの reste rebelle à l'Aufhebung 享楽の残余。

「享楽の残余 reste de jouissance」とラカンは一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的アウフヘーベンに反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

ーーーーーー

◆後半参考
私はすこし前、ラカンの古典的教えに言及した。最初に欲求があり、要求によって欲求の移行があり、結果が欲望だというものだ。そこでは、欲望は、欲求と要求とのあいだの裂け目décalage entre besoin et demandeのようなものである。…

この初期の教えは、セミネール10「不安」で問題視される。そこでは、享楽が不安によって欲望へと移行するla jouissance passe par l'angoisse pour en venir au désirとなっている。要求は愛の場 la place de l'amour となる。というのは、古典的教えでは、欲求満足への要求demande de satisfaction du besoinと、愛の要求 demande d'amourとのあいだに要求の二重化があるから。

古典的教えでは、シニフィアンは大他者から来る。他方、不安セミネールでは、神話的な享楽のモナドmonade mythique de la jouissance への言及がある。それは、後にラカンが『フロイトの欲動について Du Trieb de Freud』にて明示したものである。《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853、1964)

あなた方が知っているように、古典的教えでは、愛と不安 amour et angoisse とのあいだには結びつきがある。要求される大他者(要求の大他者L'Autre de la demande)は満足の対象 objets de satisfactionを所有している。対象は象徴的贈り物 don symboliqueの価値をもつ。愛の証拠 témoignage d'amour である。そして大他者がそれを与えないなら、苦悩détresse、寄る辺なさ Hilflosigkeit がある。こうして対象の欠如あるいは喪失 manque ou par perte d'objet による不安がある。

不安セミネールでは、同じ論理がまったく異なった遠近法を取っている。同じ論理とは、愛の根源的贈り物は愛自体 le don essentiel de l'amour est l'amour lui-même、すなわち無物 aucun objet だということを意味する。それはこう表現されている、《愛は、あなたが持っていないものを与えることだ L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas 》と。すなわち根源的贈り物は欠如 le don essentiel est le manque である。

この不安セミネールにおいての詳述化のなかで、ラカンはフロイトの『制止、不安、症状』を引用して、滅多にない反論の立場を取っている。それは、フロイトが不安を「対象の喪失la perte de l'objet」ーー第11章B冒頭《Objektlosigkeit》ーーと結びつけていることに対してだ。他方、ラカンはこう言う。不安が起こるのは、《欠如が欠如している le manque vient à manquer》ときに起こると。すなわち対象はある。「あまりにも多くの対象があるil y a trop d'objets」とき、不安は起こると。

愛は大他者の欠如の場を存続させるl'amour préserve la place du manque de l'Autre。だが、不安はこの欠如を埋める l'angoisse vient combler ce manque。そして同時に、大他者の抹消 aphanisis de l'Autre がある。この大他者抹消は、確実性 certitude を生む。

唐突に、愛は対象を施すものとなる l'amour dispense des objets。だがそれ自体、厳密に言えば、対象なきものであるil est sans objet。「人が前もって持っていないものを与えるL'amour qui consiste à donner ce qu'on n'a pas s'avance」ことによって構成されている愛は、何かを欠かしている(困窮démuni)。他方、不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet。これは、ラカンが直接的に言った第一の接近法である。というのは、ここでの対象は不安に先立っている l'objet ici précède l'angoisseから。その対象が不安を引き起こすcause l'angoisse。他方、このセミネールでの二番目の動きは、対象を生み出す不安である c'est l'angoisse qui produit l'objet。このアンチノミーは、 l'objet plus-de-jouir (享楽控除の対象・剰余享楽)において克服されることになる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

l'objet plus-de-jouir のアンチノミーはたぶん次のことを言っている筈(参照)。



ま、ミレールを全面的に受け入れなくてもいいし、彼もラカンのセミネールを読むたびに、ああここにも後期ラカンがある、と見出しているところがあるわけで。


次の2013年のミレールは、セミネール4を読んで中期以降のラカンの痕跡がすでにある、と言っているように読めるね。ミレールでさえこうなんだから、ま、仏語に不自由なボクなんかは、もうとっくの昔に諦めてるところがあるな、ラカンをじかに読むことがあっても、誰かが引用してて、その前後を読むっていう程度だな。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)