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2019年9月7日土曜日

踏み越えと踏みとどまり

以下、中井久夫の「踏み越え」論を引用するが、「踏み越え」とは "transgression" の訳だとされている。

ところでラカンには同じ " transgression" を使って、次のような発言がある。

享楽の侵犯 la jouissance de la transgression(ラカン, S7, 30 Mars 1960)
人は侵犯などしない!on ne transgresse rien ! …

享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である。Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption(ラカン、S17, 26 Novembre 1969)

フロイトの「文化共同体病理学」を引き継ぐラカンは、1960年から1969年のあいだにその思考は「侵犯から侵入」に変わった。

その変貌は、「父の蒸発」あるいは「エディプスの失墜」にかかわる。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

「享楽せよ Jouis ! 」とあるが、ラカンにとって《享楽は現実界 la jouissance c'est du Réel》(S23, 1976)であり、現実界とは穴=トラウマである、《現実界は …穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す》(S21, 1974)

享楽自体、穴を為すものであり、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

今うえに記してきた観点から、ラカンのボロメオの環の図のひとつをみてみよう。





二つの穴が示されている。これが2010年前後から臨床ラカン派で強調されるようになった「二つの現実界」であり、つまりは「二つの享楽」である。

象徴秩序の失墜後の世界は、象徴的法の越境としての享楽ではなく、エス(現実界)からの越境としての享楽が主役になった。

前者(象徴的法の越境)がラカンにとっての「侵犯 transgression」であり、後者(現実界からの越境)が「侵入 irruption」である。侵犯も侵入もどちらもブレイクスルーではある。

したがってーーこれは誰もそう示している人に出会ったことがないがーー、ボロメオの環で図示すればこうなる。




このブレイクスルーは、フロイトならその代表的な用語が "Durchbruch"である。フロイトの主要論文をざっと眺めたら、フロイトはこの語を「侵犯」の意味でも「侵入」の意味でも使っている。

たとえば以下の文は、「侵入」と訳すべき "Durchbruch" である。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 「抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung」「侵入 Durchbruch」「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着点 Stelle der Fixierung」から始まる。そしてリビドー発展の固着点への退行 Regression der Libidoentwicklung を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)


次の文は「侵略」と訳すべき "Durchbruch" である。

自我に課せられるあらゆる禁止や制限にあてはまることであるが、その禁制は周期的に侵略される periodische Durchbruch der Verbote Regelのが常である。つまりそれは祭の制度に示されているとおりである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)


次の三つの文は侵入とも侵略とも訳せる "Durchbruch" であり、「侵略侵入」とした。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を侵略侵入するdurchbrechen ほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)
一般的な外傷神経症を刺激保護壁の甚だしい侵略侵入Durchbruchs の結果と見なしてよいだろう。Ich glaube, man darf den Versuch wagen, die gemeine traumatische Neurose als die Folge eines ausgiebigen Durchbruchs des Reizschutzes aufzufassen.(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)
過剰な興奮強度による刺激保護壁の侵略侵入 die übergroße Stärke der Erregung und der Durchbruch des Reizschutzes,(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)



前置きが長くなったが、中井久夫の踏み越え論は越境論であり、中井久夫の「踏み越え」とは、侵犯でもあり侵入でもある。

以下にやや長い引用をするが、いま記してたきことを読み取っていただくための長さである。


■中井久夫「「踏み越え」について」2003年

「はじめに」

「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。

その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。

今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。さらに「踏み越え」がプラスの意味を持ってきた。「改革」「ビッグバン」「IT革命」である。これらは長期的には有効性が期待値より低いおそれがあるのだが、そのことは軽視されている。フランス、ロシアの二大革命の末路から人は多くを学ばない。ロシア革命を否定してフランス革命が無傷で済むだろうか。革命の血を血で洗う中からナポレオンが出てきて、革命を外征にかえた。どれだけのフランス人、欧州人が非命に倒れたか。私の精神的な師の一人、アンリ・エランベルジェ先生が「個々の戦争犯罪だけでなく戦争をも犯罪学の対象としなければならない」といわれるのももっともである。幸か不幸か私は戦争の世紀である二十世紀の一九三四年に生を享けた。当時、一九○四年から一九〇五年の日露戦争は「このあいだの戦争」であった。戦争参加者はまだ四十歳代から六十歳代だったのである。

(……)

行動化の効用

事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。


行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。

(……)

「踏み越えによる犯罪」

すべての犯罪が定義上「踏み越え」によるものであるとはいえ、最近の犯罪あるいは非行において、事故学的犯罪と対照的に、「踏み越え」の比重が非常に大きくなってきたという仮定のもとに考察を進める。

「踏み越え」をやさしくする条件を挙げてみよう。

(1)「踏み越え」に対する倫理的な障壁が低くなっていること。例えば、万引きに窃盗という認識、ひったくりに強盗という認識がなく、それに相当する倫理的障壁がない(逆に「立ち小便」に対する心理的障壁は五十年前にはない気に等しかったが、現在では高くなっている)。倫理的障壁はほとんど生理的であって、立ち小便は行おうとしてもなかなか尿が出ないのが普通である。強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えてならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては交感神経系優位性が副交感神経系優位性と急速に交代しなければならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか。

(2) 倫理には当然社会的側面もある。尊敬できる家族、先人、友人などが存在するか否かが大きい。家族などが例えば暴力などの侵犯への「踏み越え」を実演するなかで育つことは当然侵犯への敷居を低くする。また、自殺や離婚は、通常、踏み越えに思案を要するものの代表であるが、身近に自殺、離婚の例がある場合、行き詰まりの解決法として思いつきやすく選ばれる確率が高くなる。犯罪もまた同様。

(3) 問題解決への選択肢が少ないこと。イメージ化がうまくできないこと。無人島に行ったら何を持ってゆき、何をするかという「無人島物語」では、非行少年や家庭内暴力少年は思いつくものが少ない傾向があることを私は経験している。知的に普通と思われる少年なのに島ですると思いつくことが瑣末的なこと一つであった例がある。なお、私の経験では、箱庭で全くの模倣テーマ、たとえば「宝塚遊園地」を造るのは非行少年、特に嗜癖少年であった。これは極端例であるが、選択肢の少なさはかなり一般にいえるそうである(東京家裁主任調査官・藤川洋子による)。選択肢がわずかしかない人ほど、踏み越えが簡単であるはずである。手近な選択である嗜癖にもなりやすいだろう。

(4) 侵犯が見逃され、放置され、処罰されないこと。犯罪の最大の防止策は速やかな発見と検挙である。ニューヨークの地下鉄でも、わが国の大学でも、落書きをただちに消すことによって、落書きだけでなく、さまざまな侵犯の低下を見みている。

(5) 「踏み越え」を容易にする手段が卑近なところにあること。米国の殺人率の多さは銃規制がほとんど行われていないことによる。わが国の場合、実に卑近なことであるが、包丁が鋭利になったことがあると私は思う。 第二次大戦前の、拳銃による政治家暗殺も、ほとんどすべて銃ごと体当たりをすることによったものである。その伝統は包丁にそのまま継がれている。旧軍では、日本人はピストルの速距離射撃が下手といわれてきた。一九九五年の国松警察庁長官狙撃(四発全弾命中)は例外中の例外である。

(6)「踏み越え」を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うところである。一般兵士の「発砲率」は国によらず十五ー二十パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において五十五パーセント、ベトナム戦争において実に九十五パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。わが国では、会社、官庁における不正の黙認が挙げられようか。

わが国では、現在、当人の書面による承諾なくして事実上誰にでも生命保険をかけられるという制度的欠陥も、多くの踏み越えを容易にしている。

(7) 「踏み越え」を容易にするイデオロギーの存在。いわゆる大義が代表的なものであるが、必ずしも直接の踏み越えに関するものでなくてもよい。一般に二十世紀においては、マルロー、ヘミングウェイ、サン=テグジュベリら、「行動」を「思考」や「葛藤」よりも優位に置く作家の影響力が強くなり、登山、航海において不可能とされたことが次々に実現していった。ちなみにマルローの出世作『王道』は、カンボジャの文化遺産を盗みにゆく話である。

行動化は、自分に代ってやってくれる代理者によってもある程度満足される。サッカーや野球で選手やチームに同一化することによって、日常の心配や葛藤は棚上げにできる。この場合も含めて、行動化は、究極的に言語化・イメージ化できないものが多い。犯罪とは限らない。スポーツはもちろん、食や性でも言語を超えた部分がある。というか、言語、イメージを越えないと、何か欠けたものがあると感じられる。一般に言葉だけでは飢餓感が残る。謝罪の例がそれである。状況だけが言葉の不足感を救う。

(8) 行動をともにする仲間の存在。少年強盗の統計上の最近の増加には、集団でのひったくり、かつあげによる分が、相当に含まれている。一件七、八人ということが少なくない。

(9) ヴァーチャル・リアリティによる「踏み越え」の見聞と実体験。生まれた時すでにテレビが存在した世代の心理には、私の世代の心理と違う何かが感じられる。しかし、テレビは家族などの集団で見て対象化・客観化が可能である。テレビゲームを初めとするヴァーチャル・リアリティは孤独のなかで行われ、場の中に入り込み、かつ自分が不利な時にはリセットが可能である。

(10) 抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。

(11) うかうかとでも、とにかく「やってしまった」という事実が、その後の踏み越えをぐっとやさしくすることは多いだろう。「どうせおいらは」というわけである。「濡れないうちは露をも避けるが、濡れてしまえば川の中にでもずかずか入ってゆく」という古くからの喩えは、非常に理解しやすい心理である。

(12) 自尊心の低さと弱さ。例えば、忍ぶ恋がストーカーになり下がる過程のどこかで、自尊心がぐっと低下する体験があるのではないか。もっとも、ストーカーには、現実の不可能を強引に擬似的可能にしようという点で、「現実の不可能を非現実の可能にする」という妄想と紙一重のところがある。

ストーカーに限らない。どういう人にせよ、プライドのない人間ほど始末におえない者はない。精神科医は、患者の自尊心を大切に守る必要がある。個々の病院によって大きな差があるが、精神科病院が自尊心を失う場になってはならないと思う。さまざまな矯正施設においても重要なことである。

(13)被害者がはっきりしない場合。収賄も、遠距離砲撃の場合も、これである。陸軍に比べて海軍がスマートに見えるのは殺戮が見えないからである。

変数は以上の悪魔の一ダース(十三) に尽きないであろう。また、今後、踏み越えをやさしくする条件が増加するおそれがあり、精神医学、心理学、犯罪学の大きな主題となってゆく可能性が少なくないと私は思う。

(……)

踏み越えと踏みとどまりの非対称性

不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。

これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。テレビの番組は、その反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。(聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。

サリヴァンは、 前青春期体験を、これらすべてに括抗する人間的体験とした。今、前青春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。

ウィニコットは、子どもの憎たらしさに耐えて、将来報いられると思えるのを「ほどよく良い母親」とした。大平健によれば、今の「やさしさ」は「何もしないという思いやり」で、侵入されたくない気持ちと対になっている。子どもは「やさしい」ばかりでなく、すごい泣き声を挙げて侵入する「やさしくない」存在でもある。その時の顔はいかにも憎々しい。昔の子守歌にも「寝る子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ」とあるとおりである。ウィニコットは、それを否認せずにわが子を世話できる母親をよしとしているのだが、今、いかなる意味でも「将来報いられる」期待をいうことができるだろうか。
「自己コントロール」について

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。

もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーとてもすぐれた越境論である。

日本のラカン派で最近言われている「露出」やら「他者の享楽への嫉妬」(参照)やらだけでは、たとえば日本の嫌韓猖獗現象の分析はしがたい。こういった中井久夫のような観点にも大いに依拠すべきではないだろうか・

ここでは数箇所に現れる「自己破壊」という言葉のみに注目する。

抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

これこそ超自我の声の命令である。たとえば、現在大手メディアにさえみられる嫌韓示威はこの機制が働いているということはないだろうか? フロイトもラカンも「超自我の内なる声」という要約できることを言っている。他方、自我理想あるいは父の名は原則的に「眼差し」である。あなたを恥じ入らせる眼差し。これがきわめて劣化してしまったのが父の失墜の時代である。

もはやどんな恥もない Il n'y a plus de honte …

下品であればあるほど巧くいくよ plus vous serez ignoble mieux ça ira (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

そして恥のない社会では超自我の《内なる声 Stimme in unserem Innern geben》(フロイト)、《内なる命令 intime impératif》(ラカン)が渦巻く。

超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)

ラカンにとって享楽とはなによりもまずマゾヒズム、原マゾヒズムである。

享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance (ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

そしてこのマゾヒズム(原マゾヒズム)とは、まさに中井久夫のいう自己破壊欲動である。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ここに見られるように1920年以降のフロイトには転回があり、1919年の『子供が叩かれる』まではまだサディズムがマゾヒズムに先行してあると考えていたフロイトとは異なって、後期フロイトにおいては自己破壊欲動が他者破壊欲動に先行してある。他者破壊欲動とは自己破壊欲動の投射なのである(参照)。




中井久夫は《解離された自己破壊衝動の囁き》と言っている。中井久夫にとって解離とは、排除のことである。

解離していたものの意識への一挙奔入(⋯⋯)。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

すなわち中井久夫の言う《解離された自己破壊衝動》は「享楽の排除」であり、その排除された享楽の外立である。

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

ーー排除あるいは外立とは二重の意味をもっており、第一の意味として「外に放り投げる Verwerfung(排除)」でありながら、さらに外に放り投げられたものは、回帰するというもう一つの意味がある。排除という用語を理解する上ではむしろ後者のほうが重要である。中井久夫が《解離していたものの意識への一挙奔入》と言っているのはこの後者の意味である。

これは、ラカンの別の言い方なら「享楽回帰」である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance (ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここでもうひとつ、中井久夫からの自己破壊性のパラグラフである。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。(……)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

《四季や祭りや家庭の祝いや供養》としての象徴秩序の崩壊があり、象徴的法(父なる超自我)に対する越境としての享楽の放出が難しくなったのが現在である。破壊欲動の放出は《インターネットの書き込みに集中している》とあるのもとても示唆的であるが、これについてはいまは触れないままにしておく。

ここでもう一度ラカンの考え方を確認しておこう。

父なる超自我の底には母なる超自我がある。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

エディプスなき時代、この母なる超自我が露出するのである。そしてこの母なる超自我が現在ラカン派でいう超自我自体である。父なる超自我とはフロイトの自我理想、ラカンの父の名である(参照)。




超自我とはエスの境界表象であり、欲動の奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。だが原防衛機能としてのこの超自我では、充分な飼い馴らしはなされない。残滓がある。

それがフロイトが次の文で言っていることである。

(超自我による原抑圧は)すべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

「飼い馴らし」という語が直接に現れる二文も引用しておこう。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

くり返せば、エスの奔馬の原飼い馴らし機能をもつのが超自我≒原抑圧=固着(享楽の固着 fixation de jouissance [参照」)であり、その弱い飼い馴らし機能しかない超自我(母なる超自我)をさらに飼い馴らすのが、自我理想=父の名=父なる超自我=ファルスである。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)


そして残滓のほうは次の通り。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

これらはラカンのボロメオの環を使ってフロイト用語で示せばほぼこうなる。




象徴秩序の失墜の時代、ファルスによる飼い馴らし機能は弱体化し、超自我=母なる超自我=自己破壊欲動が侵入する宿命に現在はある。

 エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

これに対応するためにはどうしたらよいのか。

その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》、これこそラカンが次の文で言っている真意である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

かつての支配の論理に陥り勝ちな「父の名」ではなく、父の機能としての父の名を使用する必要がある、とラカンは言っている。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』の図を簡略化して、「権威」→「権威の崩壊」を示せば次のとおり(参照)。





自我がかりに三者以上であっても、右図の様相を二者関係的という。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)


象徴的権威の蒸発によって、現在は二者関係的社会である。したがって自己破壊欲動ー他者破壊欲動が飼い馴らされないままなのである。

もっとも《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》を取り戻すために、いかにすべきかの具体的な答えはおそらく現在、いまだ誰にもない難題のままである。





良性の権威とは柄谷行人のいう「帝国の原理」と機能としては相同的である。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)



………

※参照:「父なき時代のために

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)
人間は「主人」(父)が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)

2019年9月5日木曜日

こんなのありか?

いやあ、どんな統計の仕方したのか知らないけど、こんなのありか?





上はどうでもいいけど下のほうだな。

日本経済新聞社の8月30日~9月1日の世論調査によると、日本政府の韓国への対応を支持する人が7割にのぼった。韓国向けの半導体材料の輸出管理を強化したことは「支持」が67%で「支持しない」が19%だった。前回7月の同様の質問より支持が9ポイント増えた。韓国との関係について「日本が譲歩するぐらいなら改善を急ぐ必要はない」と答えた人も67%に上った。(韓国向け輸出管理強化、支持7割 日経世論調査 2019/9/1

この統計が実態に近いなら、はやく亡びるべきだね、日本国は。よく平気な顔して生きてるな、きみたちって。








2019年9月4日水曜日

傷ついたエロス=傷ついた享楽

愛、つまりエロスは原ナルシシズム的である。

愛Liebeは原ナルシズム的 ursprünglich narzißtischである。(フロイト『欲動とその運命』1915年)

フロイトの考えでは、母胎における母子融合状態が究極の原ナルシシズム状態であり、人は出生とともにこの状態を喪ってしまう。

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

ここでは母胎内における母子融合状態を「原エロス」と呼ぶことにする。

人にはこの原エロスを取り戻そうする運動がある。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)




出生とともにこの原エロスは喪われてしまうのである。ああ、なんとしても取り戻さねばならない。

エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがそれは不可能である。可能なのは母なる大地との融合(究極のエロス=死)以外にない。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

「原エロス primären Eros」をEと記すなら、出生はやばや E → Ɇ となってしまうのである。 そして Ɇ → E とは死しかないのである。

フロイトはこの原エロスの喪失を去勢と呼んだ。

去勢ー出産とは、全身体から一部分の分離である。Kastration – Geburt, um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt.(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
人間の最初の不安体験は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離を意味し、母の去勢 (子供=ペニス の等式により)に比較しうる。

Das erste Angsterlebnis des Menschen wenigstens ist die Geburt, und diese bedeutet objektiv die Trennung von der Mutter, könnte einer Kastration der Mutter (nach der Gleichung Kind = Penis) verglichen werden.(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


もっとも去勢は何種類もある。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為がそれまで一体であった母からの分離して、あらゆる去勢の原像であるということが認められるようになった。

Man hat geltend gemacht, daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte, daß er die regelmäßige Abgabe des Stuhlgangs nicht anders werten kann, ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. (フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) 

たとえばフロイトは母の乳房が原ナルシシズム的リビドーの対象だと言っている。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、第7章、死後出版1940年)


だが出産が原去勢であるのはかわりがない。

最晩年のラカンはこう言っている。

われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


原享楽とは原エロスである。これが出生とともに喪われてしまうのである。

例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)

ラカンはこの享楽の喪失を「廃墟となった享楽」とも表現した。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


あるいは控除されたリビドーとも呼んでいる。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

リビドーとはもちろん享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてリビドーとはエロスエネルギーである。

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

ラカン曰くの《リビドーは、不死の生 vie immortelleである》に戻ろう。この「不死」という表現自体、フロイト起源である。

生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる。die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte her…だが胚細胞は潜在的に不死である。die Keimzellen aber sind potentia unsterblich (フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)
フロイトは、胚芽germen、卵子と精子cet ovule et ce spermatozoïdeの二つの単位を語っている。…それはざっと次のように言い得る。この要素の融合において生じるものは何か?ーー新しい存在である。c'est de leur fusion que s'engendre - quoi ? - un nouvel être. だがこれは細胞分裂(減数分裂 méiose)なし、控除なしでは起こらない。la chose ne va pas sans une méiose, sans une soustraction…或る要素の控除la soustraction de certains élémentsがあるのである。(ラカン, S20, 20 Février 1973)

細胞分裂 méiose は本来、母胎内で受精したとき既に起こっているだろうが、ここでは細かいことは追求しない。蚊居肢散人の非科学的頭では「出生とともに喪われる」でよいのである。

別の場では、喪われた対象であるモノとは母であるとフロイトもラカンも言っている。

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ああ、人はみななんという根源的去勢をされてしまっていることか! (もちろん動物だってそうだが、彼らは本能は喪われていない。人間にあるのは欲動だけである)。

去勢は享楽の名である la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

上のミレール文に示されたマテームを使用しつつ、さらに冒頭近くにかりにおいたɆ いうマテームを使用して、「傷ついたエロス=傷ついた享楽」図として次のように並置しておこう。






この生物学的相におけるエロス・享楽について、現在のほとんどのフロイトラカン派注釈者はあまりにも軽んじている(あたかもまるで理解していないようにさえ見える)。だがフロイトラカンの思考の根はここにしかない。それは、精神分析の領野を超えた、古代から綿々と続くエロスと死の思考のなかにある。

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう」"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節)
愛は死の欲動の側にある。l'amour est du côté de la pulsion de mort. (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)

フロイト・ラカンの「不死の生」を「永遠の生」として次のニーチェを読もう。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)

ここでリルケを引用してもよい。

天使たちは(言いつたえによれば)しばしば生者たちのあいだにあるのと
死者たちのあいだにあるのとの区別を気づかぬという。永遠の流れは
生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代を拉し、
それらすべてをその轟音のうちに呑み込むのだ。

Engel (sagt man) wüßten oft nicht, ob sie unter
Lebenden gehn oder Toten. Die ewige Strömung
reißt durch beide Bereiche alle Alter
immer mit sich und übertönt sie in beiden.

リルケ『ドゥイノ』「第一の悲歌」


最後にラカンに戻っておこう。

享楽は不可能である、…つまりエロス、すなわち「ひとつになる faire Un 」という神話が可能なのは、…死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要訳)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

あるいは、

欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

ーー享楽の漂流とは、上の二文からわかるように死の漂流(死の欲動)のことである。ラカンは享楽という語を種々の相で使っているが、上の文においては死=享楽である。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)

………

※付記

なおラカンはここで記した原享楽に相当するものを、セミネール9、セミネール10の段階では、Aという記号で示している。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)






2019年9月3日火曜日

フロイトの欠陥:「自我理想と超自我」区分の曖昧さ

このところ何度か引用してきたフロイトの『集団心理学と自我の分析』(1921年)はとても面白い論文だが、注意しなくてはならないところはそれなりにある。

フロイトはその全論文において書きつつ思考している。したがってたとえばある時期にあることを言っても、そのあと違ったことを言うようになる。これはすべての書き手においても多かれ少なかれそうであろうが、フロイトにおいてはそれが甚だしい。それは精神分析創始者による宿命である。

おそらく『集団心理学と自我の分析』で一番注意すべきなのは「自我理想」概念である。この1921年の段階では「超自我」概念はない。

超自我概念は1923年の『自我とエス』の第3章で初めて提出される。第3章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)[Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)]」である。ここから「超自我=自我理想」と一般には捉えられてしまった。

フロイト自身のその後の記述においても、あきらかに超自我=自我理想と扱っている論文がある。

私は、明言を躊躇うのではあるが、女にとっての正常な道徳観のレベル Niveau des sittlich Normalen für das Weibは、男のものとは異なっていると思わざるをえない。女の超自我 Über-Ich は、われわれが男に期待するほど揺るぎなく、非個人的な、情動の源泉affektiven Ursprüngen の影響を受けないものには決してならない。(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)

ーー最晩年のフロイトに依拠して遡及的に言わせてもらおう。ああなんというおばかなフロイトよ、解剖学的女の超自我の不足だって? 女は超自我をふんだんにもっている。不足しているものがあるなら、自我理想である。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)

現代にいたるまでほとんどの論者におけるフロイトの超自我と自我理想概念の「混同」の不幸はすべてこういったところにある。この混同はドゥルーズもやっているし(参照)、最近では憲法超自我論の柄谷行人もやっている。中井久夫だってそうだ。

この超自我概念の把握においてメラニー・クラインはとてもエライ。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

母のおっぱいが超自我の核といったメラニー・クラインはとってもエライのである。

最初期からこう言ったラカンもエライ。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

フロイトやラカンが何を言ったのかについての詳細は、「「理想自我と自我理想と超自我」文献」を読んでいただくことにして、簡潔に図示すれば、自我理想と超自我の関係はこうである。





原初にあるエスを最初に飼い馴らすのが超自我(「前エディプス的母なる超自我 Surmoi paternel oedipien 」)であり、自我理想はその超自我をさらに飼い馴らす機能をもつ。もし自我理想を超自我という語を使って言えば「エディプス的父なる超自我 Surmoi maternel pré-oedipien」であり、これがラカンの「父の名」である。そして「前エディプス的母なる超自我」が、事実上の超自我自体である。この超自我を、ジャック=アラン・ミレールはラカンに依拠しつつ「母の名 le nom de la Mère」とも呼んでいる。

最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)

だが呼び方はどうでもいいのである。肝腎なのは次のことである。

…要するに、自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)

………

まずここまでが必ず把握しておかねばならないことである。以下にやや難解なことを記すが、いま上に記した前段階を十全に納得しておかないとイミフの記述であるだろう。

ラカン派にはI(A)とS(Ⱥ)というマテームがある。これが自我理想と超自我のマテームである。




我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S(Ⱥ)=超自我とある。後述するがS(Ⱥ)はエスの原初の飼い馴らし機能がある。そしてI(A)は、S(Ⱥ)ーーよわい飼い馴らし機能しかもたないエスの境界表象ーーのさらなる飼い馴らしである。




残滓aとは、ラカンの対象aであり、飼い馴らしがすべてうまくいくわけではないという意味での「飼い馴らしの残りもの」である。この残りものは、別名「去勢」と呼ばれる(参照)。

去勢は享楽の名である la castration est le nom de la jouissance 。…

父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は享楽の諸名のひとつである。Le nom du père métaphorise le désir de la mère[…], ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

ちなみにジャック=アラン・ミレールは次の図を示している。


NPは父の名、DMは母の欲望である。そしてDM≒超自我だとミレールは既にはやい段階で言っている。

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

 S(Ⱥ)とは穴Ⱥのシニフィアンということである。上図の「快/享楽」(「有限/無限」)は、「欠如/穴」とも呼びかえうる。いくらか長い引用になるが、後期ラカンを読む上での核心のひとつなので注釈引用をしておこう。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)


さて、飼い馴らし、あるいは飼い馴らしの残滓の話を確認しておこう。以下にあらわれる神経症的障害とはフロイトにとって全症状である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)

この自我による飼い馴らし機能のマテームS(Ⱥ)とはリビドーの固着(欲動の固着)のシニフィアンでもあり、aとはリビドー固着の残滓である。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

リビドー固着の残滓は享楽の残滓とも呼ばれる。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

享楽の経済においてファルス化されないものという表現があるが、これが超自我によっても、あるいは自我理想による「父の隠喩」によっても「飼い馴らされない=翻訳されない」残滓であり、エスのなかに居残る「原無意識」である(後述)。


話を戻して、象徴的同一化としての自我理想が「父の名」と等価であるあることは、これまたミレールが次のように注釈している。先ほど引用した文に《I(A)、つまり自我理想は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能がある。他方、S(Ⱥ)[超自我]はひどく不安をもたらす機能 がある》とあったことを思い出しつつ以下の文を読もう。

超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 ⋯ comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)

これはジジェクが比較的はやい時期から強調していることでもある(ジジェクは2004年に「私のラカンは、ミレールのラカンである」と自ら宣言している。その後にミレール批判はあるが)。

たいてい見過ごされているのは、自我理想 ego-ideal の崩壊は必然的に「母なるmaternal」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗social failure」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父の権威の失墜 decline of paternal authority」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。(ジジェク 『斜めから見る』1991)

「父の権威の失墜 decline of paternal authority」とあるが、ラカンから一文だけこう引用しておこう。

エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

上でジジェクーー1980年代後半、ミレールのセミネールに出席していたジジェクーーの言っていることは、たとえば次のミレール文のすぐれた翻訳である。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

わたくしの知るかぎりで日本ラカン派業界の不幸は、このあたりを現在にいたるまで十分に鮮明化していないことである。それはもちろんフロイト業界においてもさらにいっそうそうである。

………

いまどき次の図をナイーヴに注釈してしたり顔をしているのみのフロイト学者など、わたくしに言わせれば「知的抹消」の対象である。




フロイト自身、上の文でこのスキーマは十分でないから改良してくれと言っているではないか。

蚊居肢スキーマはこうである。




ーーこれは全面的にラカンのボロメオの環に依拠しているわけではないことを先に断っておこう。あくまでボロメオの環のフロイト観点からの利用である。

ラカンのボロメオの環において「a」と置かれる中心の場は(-φ)[去勢]とした。

私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

このスキーマをもって巷間のフロイト学者ラカン学者を知的銃殺刑に処する。

蚊居肢子は、日本的フロイト・ラカン共同体の学者たちの「なまぬるい言葉」、書評などにみられる「互いの無知の嘗めあい」を掠め読むだけで、どうしたってシュルレアリスト気分におそわれてしまうのである。

最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトン André Breton, Second manifeste du surréalisme)

………

かさねていくらか補っておこう。

超自我とはエスにたいする最初の飼い馴らしであり、エスの「境界表象 Grenzvorstellung」である(参照)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

超自我とはじつは原抑圧(固着)に関係する。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ここで《超自我の核は、母の乳房である》というメラニー・クラインの解釈は、「母へのエロス的固着が超自我の核」だといくらか言い直しておこう。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

だれが人生の最初期に幼児の行動を監視するのか? 母に決まっているのである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。……疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ここに母の乳房は、原ナルシシズム的リビドー備給の対象とある。じつは『集団心理学』にも次の記述がある。

私は「自我理想 Ichideal」を、自己観察、道徳的良心、夢の検閲、抑圧のさいの主要な影響力をその機能に帰した。それは、小児の自我が自己満足を得ている原ナルシシズムErbe des ursprünglichen Narzißmusの後継者である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

自我理想は母の乳房への固着、あるいは母への固着の後継者なのである。

母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

こうして最晩年のフロイトによってメラニー・クラインを補足すれば、彼女の解釈はみごとに正当化されることがわかるだろう。

ここでラカンおよびラカン派からも補っておこう。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

母への依存が母なる超自我の核なのである。これこそ原抑圧にかかわる固着である。

原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)

さきほど掲げた1933年の『新精神分析入門』の図をもう一度みてみよう。




この図における抑圧を原抑圧として捉えれば、超自我≒原抑圧としうることが理解されうるだろう。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

もう一度、蚊居肢スキーマを示しておこう。




ーーフロイトが新精神分析入門で先ほどの「自我-エス-超自我」のスキーマについて言ったように、「この図では十分ではないから、どうぞあなたがたが修正してください」と言っておいてもよい。


さて先ほど引用したフロイト1940に《超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する》とあったが、つまり超自我とは死の欲動の審級にある。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)

超自我≒原抑圧とは原無意識の審級にある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

………


ジャック=アラン・ミレールは、S(Ⱥ) =sinthome Σ としている。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)

上にみたように、 S(Ⱥ)=Surmoiでもある。したがってこれに依拠すれば、S(Ⱥ) =sinthome Σ=Surmoiである。これはどうしたってこうなる。

こうも言っている。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

欲動のクッションの綴じ目とは、欲動の固着、つまり原抑圧のことである。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

したがってS(Ⱥ)は超自我のシニフィアンであると同時に、原抑圧のシニフィアンでもある。




以上、一般にはかなり難解だと思うが、これをはずしてフロイト・ラカン理論はない。すべての核心は原抑圧=リビドーの固着(享楽の固着)である。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

穴、すなわち引力の核であり、すべてを呑み込むブラックホールである。

フロイトは、原抑圧 l'Urverdrängungを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

これこそ死の欲動の本源的な意味である。究極的にはどこに吸い込まれる欲動か?

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


※参照


リビドーの固着=享楽の固着
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'être et l'un, 30/03/2011)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation.   (J.-A. MILLER,  L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)





2019年9月2日月曜日

おまえな、反嫌韓デモやれ

おまえな、ガタガタいっておらずにデモやれ、反嫌韓デモおこせ。デッカイノをな。小粒じゃだめだ。

タロウってのはなんでこのキにおよんでもソッセンしてやらないんだろ、やったらゆるすけどな。

おれはな、この東南アジアの土地で韓国の連中と三日に一回ぐらいはテニスやってんだ、さいきんイゴコチわるくってしょうがないぜ。ネットなんかでガタガタいったって効果ない。テレビ撮影用のデモだっていいさ、デモンストレーションがかんじんだ、世界にむけてな。


あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息

いやあ、きみ、「中福祉・高負担しかありえない」で掲げた図表ってのはな。

(「社会保障について」 平成31年4月23日(火) 財務省、pdf


この図表ってのは、ネットにいくらでも落ちている次のたぐいの図のことだよ。




いくら日本が僥倖的経済成長したって、近未来にかならず訪れる労働人口で1人で高齢者1人を既存システムのままで支えられるわけかないってのはいくらなんでもわかるだろ?

・現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。

・日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)

ま、きみのようなタイプは国民負担率ってのはなんのことかサッパリだろうがね。





で、さらに高齢者が増えるってことは、増える以上に負担が増えるってことだよ。




こうなんだから、負担を増やして福祉を減らすしかない。年金支給は当面70歳以上にするしかない(それだって社会保障給付額はたいして減らない)。


ここまでは巨大な国家債務については無視して記してきたががね、この国家債務消滅法は唯一ハイパーインフレがあるが、これを期待するならそれはそれで正当化されるよ。貴君の実際はこれだって言えよ、そうしたら許容するよ、「タロウとともにハイパーインフレを!」って宣言したらいいのさ。

ハイパーインフレは、国債という国の株式を無価値にすることで、これまでの財政赤字を一挙に清算する、究極の財政再建策でもある。

 予期しないインフレは、実体経済へのマイナスの影響が小さい、効率的資本課税とされる。ハイパーインフレにもそれが当てはまるかどうかはともかく、大した金融資産を持たない大多数の庶民にとっては、大増税を通じた財政再建よりも望ましい可能性がある。(本当に国は「借金」があるのか/福井義高 2019.02.03)

小泉進次郎のホンネはここかもな。2012年3月30日、国会内で「若い人にもデフォルト待望論がある。財政破綻を迎え、ゼロからはじめたほうが、自分たちの世代にとってはプラスだという議論が出ている」と言ったらしいからな(参照:デフォルト待望論)。

でも債務が帳消しになったって、冒頭図にある少子高齢化社会の事態に対応するために負担増、福祉減はまちがいなくしなくちゃならない。

負担増は、所得税や法人税の負担をふやすと労働人口だけに皺寄せがくる。全人口に負担を均等にふやす方法はほとんど消費税しかないってことだよ。

あったりまえだろ、これ?


(これからの日本のために 財政を考える、財務省、令和元年6月、PDF



財務省のまわしものって言われてもな、こういった事態をみてみないふりをするよりずっとましだな。どこかの左翼ポピュリスト政治家みたいにな。

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民Pöbelの値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー。

Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

あの賤民の記号として機能しているらしいタロウとかいうボウヤ、そしてそれを応援する輩ってのはな。「ああ、嘔気、嘔気、嘔気!」でしかないな。

あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、[allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem」…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民 Gesindel のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気![Ach, Ekel! Ekel! Ekel! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」)


佐々木中が東北大地震のとき、こう言っていたがね、

ドゥルーズが語ったなかでも、実に印象的な台詞があります。詳しくは申しませんが、彼はある時に、ある一群の哲学者たちを指して、「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる、「屍体を食い物にしている」と激しく非難したのですね。……(佐々木中「《砕かれた大地に、ひとつの場処を》のなかで」『思想としての3・11』所収

なによりもまず重度障害者を食い物にするあのポリコレ利用ボク珍、逆差別ボク珍ってのが、どうして許せるんだい? 信じがたいよ、タロウ信者ってのは。

ま、集団神経症なんだから何をいってもムダだろうがね。

原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)

ニーチェ風の言い方をすれば、きみたちの症状は賤民の集団神経症であり、ーー「賤民 Pöbel」だから、穏やかに言えば、「左翼ポピュリストたちの集団神経症」ってことだよ。






こうなってしまったら思考の制止が起こる。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)


ま、「畜群の集団神経症」に対抗するための「賤民の集団神経症」ってわけだ。






構造的にいえば、畜群の症状も賤民の症状も変わらないよ。それがわかっていればいいさ、これ以上文句をいうつもりはないね。デハ左様ナラ!








2019年9月1日日曜日

なぜレイシズムが猖獗するようになったのか

まずアーレントである。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

次にノーベル文学賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンだったドリス・レッシングの『自伝』からである。

子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。

Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore. (Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)

ようするに1968年の学園紛争後、権威は消滅したため、欧米でもいじめが猖獗するようになったのである。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

したがってラカンは《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をした。

いじめもレイシズムも基本的には権力欲の問題である。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)

この権力欲は権威が失墜したとき際立って露になる。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

現在、明らかなことは、第三者においてうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「社会的結びつきと権威 Social bond and authority」1999)

このところ何度か示しているフロイトの集団心理学の図を掲げよう。





原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)

これは権威としての外的対象を自我理想として取り込み、各自我はその権威を通してたがいに同一化するということである。権威が消滅すれば、各自我は二者関係的になり「いじめ」が始まる。

簡略してしめせば次のとおり。




自我がかりに三者以上であっても、右図の様相を二者関係的という。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

これらは、精神分析的知においてフロイトが創始した「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」の思考のもと、かなり以前から理論的にこう説明されている話であり、現在のレイシズム社会に触れるなら必ず知っておくべき内容である。

現在の新自由主義社会とは、二者関係的社会である。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
(現在)人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)

そもそも資本の論理自体が差異の論理であり、ここから差別の論理には半歩しかない。

資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談、1990)

ラカン派も柄谷も支配の論理に陥りがちな権威の復活を願っているわけではない。それについては、「ナイーヴなマルチチュード概念のお釈迦」を参照されたし。

なお権威が失墜した社会で互いの「いじめあい」がおこらないようにするためには次のような構造が必要である。




理念 führende Idee がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)


言語という自我理想

数日前に『集団心理学と自我の分析』を読み直したのだけれど、こんな文があるのは以前はまったく気づいていなかった。

言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

この文は、言語は自我理想だといっているのであって、ジャック=アラン・ミレールの言い方なら、

言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père》( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

である。




原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)

いま上に掲げた図をもっと簡略して図示すればこうなる。





こういう形で、日本語集団、英語集団、仏語集団、独語集団、中国語集団、朝鮮語集団等々ができあがる。各民族はそれぞれの言語で同一化し、バカ化する。

集団の知的能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度 ethisches Verhalten は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。……彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)

「サピア・ウォーフの仮説」というのがあって、バルトが日本論『記号の国』で触れているのだが、それは「人間の思考はその人間の母語によって決定される」という仮説だ。ニーチェ風にいえばこうである。

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)

言語が異なれば、世界は異なってみえるのである。現在の世界の最大の不幸は基軸通貨どころか基軸言語まで米国あるいはアングロサクソンであることである。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番)

話を戻して、より直接的に父の名=自我理想=神の文脈で言えば、

言語のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』1888年)

ようするに文法という神、文法という父の名を言っている。

さらに各国の言語の使用ではなく、言語の使用自体が人間をニブクするということもある。

なおわれわれは、概念 Begriffe の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語Wortというものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 Urerlebnis に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen。

一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性 Verschiedenheiten を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念 Vorstellung を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形 Urform というものが存在するかのような観念 Abbild を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)


これが中井久夫の「言語による世界の貧困化・秩序化」である。


言語による世界の貧困化・秩序化
名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。

しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)



ここでラカンを引用しておこう。言語による啓蒙を通した人間のマヌケ化である。

私は相対的にはマヌケ débile mental にすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的知的障碍者 débile mentalにすぎない。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。

[Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. ](ラカン、S24, 17 Mai 1977)

で、半年後にはこう言う。

言語は存在しない le langage, ça n'existe pas.(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

これは言語は仮象であるということである。

さらにいえば世界は仮象である。世界は存在しない。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

したがってすべては解釈だということになる。

現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。……

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」(ニーチェ『力への意志』1886/87草稿)

《世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている》、ーーこれが「真理は女」の内実である。

真理は女である die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)


したがって真理は嘘であり錯角である。

真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014ーー)
真理とは錯覚である die Wahrheiten sind Illusionen。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩 Metaphernである。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。

die Wahrheiten sind Illusionen, von denen man vergessen hat, daß sie welche sind, Metaphern, die abgenutzt und sinnlich kraftlos geworden sind, Münzen, die ihr Bild verloren haben und nun als Metall, nicht mehr als Münzen, in Betracht kommen(ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽について』1873年)

※ここで断っておかねばならないが、「真理とは嘘である」で記したように、フロイト・ラカンにおいて仮象としての世界の彼岸には現実界がある。あるいはエスがある。欲動の身体は実在する。これはニーチェにおいても同様である。ここではその相には触れずに記している。


巷間の「誠実な」歴史学者に欠けているのは、24歳のニーチェが言った次の認識である。

歴史とは、 それぞれの存立を賭けた無限に多様で無数の利害関心(Interessen)相互の闘争でないとしたら、一体何であろうか 。(Nietzsche, Nachgelassene Aufzeichnungen , Herbst 1867-Frühjahr 1868)

もっともこの認識の欠如は誰もが免れないと言っておいてもよい。つまりは《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている》(Human being cannot endure very much reality ---エリオット『四つの四重奏』中井久夫超訳)のである。


………

いま記したことは歴史だけの話ではない。

たとえば物理学の対象の自然である。

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)

物理学の言説が、自然を解釈するのであり、異なった物理学の言説を採用すれば世界は異なったものになる。

・科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

ラカンが、自然は《 非一 》pas-une であると言っているのはこの意味である。

自然は 《非一 pas-une 》に他ならない。La nature, dirai-je pour couper court, se spécifie de n’être « pas-une ». (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

ようするに「自然は存在しない」。 自然は解釈としてあるのみである。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002)

これらのニーチェ的ラカン派的思考は柄谷行人も相同的なことを言っている。

コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

コペルニクスと異なった計算体系が採用されれば、自然は異なったものになる。

科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)
経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される……そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」1983年)

ニーチェをくり返せば、物理学の言説における「線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間といったもの」は、言語(仮象)の一種である。

言語はレトリックである。Die Sprache ist Rhetorik, (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)

言語(数学的記号も含まれる)を使用するかぎり、人はみなプロパガンディスト propagandistである。