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2020年5月30日土曜日

フェティッシュはリアルの窓

以下、フェティシストとしての蚊居肢子の妄想である。いささか厳密さに欠けるところがあるが、それがどこかは隠しておこう・・・なんたってフェティシストの妄想にすぎないんだから。

とはいえ、蚊居肢子はスタンダール的経験をもっていることを先に言っておかなくちゃならない。


私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯)




さてまずラカン 研究のメッカのひとつ、ベルギーゲント大学の二人の幻想と妄想の簡潔な定義を掲げる。

幻想とは、象徴化に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)

妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。
(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)


とても似た定義である。似ているのは後期ラカン 観点からは当たり前である。


実際のところ、妄想は象徴的である。妄想は象徴的迷信である。そして妄想は世界を秩序づけうる。…私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(J.-A. Miller, Ordinary psychosis revisited、2009)


さてここで真の話題を始める。


幻想=現実界の覆い+現実界の窓
幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓(現実界の上の窓)である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である。

le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme […] entre l'écran et la fenêtre.(J.-A. MILLER, - 2/2/2011 )

窓とは穴である。それは「彷徨う穴で示した。

要するにこうである。





この穴としての窓aを覆うのが穴埋めaである。この覆いを幻想あるいは妄想とよぶ。穴が現実界的な対象a、スクリーンするのが象徴的(+想像的)対象aである。最も基本的な対象aはこの二種類である。

ラカン派がスクリーンと言うとき、フロイトのスクリーンメモリーが念頭にあることが多い。

冒頭のミレール 文の現実界のスクリーンと現実界の窓というのは、ラカン が次のように言っている内容である。似た内容だが微妙な差異があるので三文掲げる。


ラカン による隠蔽記憶(スクリーンメモリー)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réelが、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想fantasmeと呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶はたんに静止画像(スナップショットinstantané)ではない。記憶の流れ(歴史histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4  30 Janvier 1957 )
幻想を以て我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に凍りつかせて還元する fige, réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化されているもの、そこには全てのエロス的機能valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれるている…(ラカン、S4、16 Janvier 1957)


最初の文にある表象代理は窓のことである。その窓を埋めるのが幻想的表象である。



表象よりも表象代理が先行してある。フロイトはこの表象代理を欲動代理とも呼んだが、要するに原抑圧=固着の穴である(参照)。

この前提で以下のフロイトによるスクリーンメモリーの記述を読もう。


隠蔽記憶≒フェティッシュ=病因的固着
「初期の」性的刻印 »frühzeitigen« Sexualeindrücke]に関して精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。真の説明は、最初のフェティッシュの発生[Auftreten des Fetisch]の記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期[untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung]が存在していることである。フェティッシュは、隠蔽記憶のように[durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« ]この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag ]である。(フロイト『性理論三篇』1905年、1920年注)


ーー病因的固着を覆う代表象としてのスクリーンメモリー≒フェティッシュである。







以下の文には、フェティッシュという語はでてこず隠蔽記憶とだけあるが、「病因的トラウマ」とあるように、いま上に引用した「病因的固着」と相同的内容をもっている。

隠蔽記憶=トラウマへの固着
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自己身体の上への出来事Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

このような尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…


したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)



要するにこうである。



これは上に示してきた図と同じことである。ラカン にとってトラウマとは穴のことである。穴ウマtroumatisme ( S21, 1974)という表現があるくらいである。


以上により、フェティッシュはトラウマの覆いであると同時に、トラウマの窓であると言っておこう。要するに、フェティッシュとは、現実界の窓、穴の窓の相があるのである。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



さあて具体的に見てみなくちゃな、フェティッシュがほんとうに現実界の窓なのかどうか。


女のペニスへの固着
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、エロス的欲動活動 erotische Triebbetätigungとしてある激しい視姦欲 intensive Schaulust が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母から発したエロス的魅力[Die erotische Anziehung, die von der Person der Mutter ausging]やがて、やはりペニスだと思われている母の性器を見たいという渇望 Sehnsuchtにおいて頂点に達する。

ところが後になって女はペニスをもっていない [das Weib keinen Penis besitzt ]ことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心因性インポテンツ psychischen Impotenz、女嫌い Misogynie、永続的同性愛 dauernden Homosexualität などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固着 [die Fixierung an das einst heißbegehrte Objekt, den Penis des Weibes]は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求 infantiler Sexualforschung のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴のフェティシズム症的崇拝[Die fetischartige Verehrung des weiblichen Fußes und Schuhes]は足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴 Ersatzsymbol としているようにみえる。「女の毛髪を切る変態者 Zopfabschneider」は、それとしらずに、女の性器に去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)






ーーー子供っぽそうな少女なんだけどな、でもとってもフェティシズム症的崇拝しちゃうよ。


隠毛の光景への固着
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) ……

我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な直前の印象が、フェティッシュとして保持される。der letzte Eindruck vor dem unheimlichen, traumatischen, als Fetisch festgehalten

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景への固着 fixieren den Anblick der Genitalbehaarung である。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファリックphallischだと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえている。だが私は、フェティッシュの決定が毎回確実に見通せる、というつもりはない。

フェティシズムの研究は、去勢コンプレクスの実在をいまだ疑ったり、あるいは女性の性器に対する恐怖 Schreck vor dem weiblichen Genitaleには他の理由があるとする人々に是非お勧めしたい。たとえば出産外傷の記憶 Erinnerung an das Trauma der Geburtを想定している人もいる。このフェティッシュの解釈となると、私にはまた別の学問的興味がある。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)






ーー白いパンティからオケケが見えそうで見えないのがとってもいいね、


母へのエロス的固着
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





ーーこれだってとっても女拘束系だね

で、みなさん、というか男性諸君に限定してもいいけど、現実界の窓が感じられたでしょうか?




ブラックホールの窓
真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現[apparition sur la scène d'une forme de femme、ヴェールが落ちて[son voile tombé]、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750, 1958)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン, S2, 16 Mars 1955)