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2021年3月29日月曜日

もちろんムリさ、連中には

 


ドゥルーズ は内的差異[la différence interne]あるいは内在化された差異[la différence intériorisée]と繰り返している。


一般的差異から単独的差異へ、外的差異から内的差異への移行としての反復。要するに差異の差異化としての反復。la répétition comme passage d'un état des différences générales à la dillérence singulière, des différences extérieures à la différence interne ― bref la répétition comme le différenciant de la différence. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968年)


究極の絶対的差異[différence ultime absolue ]とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前[la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet ]のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異[différence interne]であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異[différence qualitative qu'il y a dans la façon dont nous apparaît le monde, différence qui, s'il n'y avait pas l'art, resterait le secret éternel de chacun]》(「見出された時」)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第4章「Les SIgnes de l'art et l'Essence 」第2版1970年)


無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版、第5章、1970年)


純粋差異[pure différence]ともいうが、内的差異と同じこと。


永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。〔・・・〕


永遠回帰 L'éternel retour には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。〔・・・〕


永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異[une différence originaire, pure, synthétique, en soi]の帰結である(この差異はニーチェが「力への意志」と呼んでいたものである)。差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である。Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


1980年にはブラックホールとも言ってる。


口の中にマドレーヌをころがす話者、冗長性、無意志的回想のブラックホール[Le narrateur mâchouille sa madeleine : redondance, trou noir du souvenir involontaire]。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、 逃れるべきものなのだ[Avant tout, c'est quelque chose dont il faut sortir, à quoi il faut échapper]。プルーストはそのことをよく知っていた。 彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)


ブラックホールという語はリトルネロの章にもでてくる。


リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる:時に、時に、時に。La ritournelle a les trois aspects, elle les rend simultanés, ou les mélange : tantôt, tantôt, tantôt.


時に、カオスが巨大なブラックホール となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。Tantôt, le chaos est un immense trou noir, et l'on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre. 


時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観」を作り上げる(形態ではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。Tantôt l'on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable : le trou noir est devenu un chez-soi. 


時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。

Tantôt on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir. (ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「De la ritournelle」1980年)


この直後、DGはクレーに触れている、どの絵だかは明示していないが。逃げ道を接木するってのは、足だよ、フェティッシュだ、たぶんね。






リトルネロ  /ブラックホールの基本はラカンマテームで記せば完全にこうなる。





リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 1974)

サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S(Ⱥ)   (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)

境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

S(Ⱥ) とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


ーーサントームとフェティッシュには近似性がある(参照)。


で、このリトルネロはニーチェの永遠回帰に結びつけられている。


ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos. (ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「De la ritournelle」1980年)




差異と反復の思想家ドゥルーズの核心はここにしかないよ。



で、「ドゥルーズのフロイト解釈の際立って優れた点」で示したが、フロイトに依拠してこうも言っている。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。


Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


欲動蠢動は「自動反復=自動機械Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)



あとは固着が内的差異なのかどうかを問えばいいんだよ。


で、フロイトラカン的な内的差異とはこうだ。➡︎ 一者がある Y'a d'l'Un




ボクがドゥルーズ 研究者を馬鹿にする傾向があるのは、連中はまともにフロイトも読まず、プルーストも読まず、ニーチェは?ーー読んでいるフリぐらいはしているかなーー、ピント外しばかりの研究論文大量生産しているからだな、言わせてもらえば。


連中は内的差異に従って論文生産してんだろうか、それともたかだか一般的差異の反復なんだろうかーーボク珍たちにおすすめするのは、まず自らにこの問いを立てることだがな。



ま、もちろんムリだろうけどさ。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)



自らのなかに内的差異という不変の個性刻印探すなんてさ、思いもよらないんだろうよ。





内的差異とは究極的には、「私の中にあって私以上のもの=異者」がいるってことなんだがな。


◼️異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie)   La Bibliothèque électronique du Québec, p40)


◼️異郷の自我の回帰

偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。


Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。


Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年)



いやあシツレイ! 〈きみたち〉にはムリなのはとっくのむかしからわかってるさ、こんなこと言ってもムダだってことがさ。