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2021年3月24日水曜日

大宮でたべたべんたうは美味かつたなあ

 


永い服役で積まれた金が、この女の手に渡ることでは、少しもケチな氣にはならずに、金で女のからだの時間を自分のものにすることで、あまい融けるやうな氣持だつた。汽車の中で偶然に會ひ、そして打木田に手までにぎらせてくれたことで、厭だつた娑婆世界に難なくすべりこんだ嬉しさを感じたのだ、打木田は三年間にうれしい氣持といふものを、身をもつて迎へたことがない、うれしいこととは、どういふ事だか打木田から失くなつてゐる、だから、それがどういふことだつたか、まるで判らなくなつてゐた。出獄の日だつて鐵のとびらから辷り出ても、大してうれしい思ひはなかつた。もつと外のものでうれしい事があつた筈だつた。それが汽車で同席したこの女が、一どきに解きあかしてくれたのだ。うれしい事を一杯に手ににぎらせてくれたのである。

いまのおれにうれしいことは女にぴたつとくッつくことなのだ、そこで三年間のものを一度に打ち明けたい。女に分る筈のないおれの聲のかぎりの嗚噎が、おれが女を抱いてゐる間ぢゆう續いてゐるのだ、どんな偉い奴も、どんな美味いものもいまのおれにはいらない、おれにいるものはこの女のお腹や胸や足や、そしておれにはなしてくれる言葉なのである。まともな人間とつきあつてくれるものをいふのだ、そしておれの思ふままにしてくれるからだなのだ、この外におれのいるものに何があらう、何もない、この人のすぐにしたしくして呉れるものの外に、なにが娑婆にあるといふのだ、この女のほかにおれは何處に行つても、行くところは、どこもかしこも行停りなのだ、この女のあたたかいぐにやぐにやしたもの、そしてこのぐにやぐにやしたものの麗しさは、おれのからだに脈を打つてはいつて來るのだ、打木田は自分の顏にくつついてゐる女の顏をしげしげ見ていつた。……

「大宮でたべたべんたうは美味かつたなあ。」「鹽鮭がとてもおいしかつたわ、あんたつたら、あつといふ間に食べたぢやないの、あんなに早く人間がご飯を食べられるものかと思つたわ。」 打木田はうそは吐けない、あの辨當はたべてから、たべたことを知つたくらゐ、夢中でたべて了つてゐた。「おれがあんたの足の上に、足をのつけたのを知つてゐる?」「知つてゐたわ。」「何故外さなかつたの。」「お隣さんですもの、そんなことをしてあんたに厭な思ひをして貰ひたくなかつたわ。」「きみはいい人だね、こんな處にゐる人ではない。」

(室生犀星『汽車で逢つた女』初出:「婦人公論」1954(昭和29)年10月1日)



汽車のなかでの弁当はほんとにいいね、弁当だけじゃなくてさ。それも女づれだったらもっといい。新幹線じゃぜんぜんダメさ。



小津安二郎『浮草』1959年