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2021年10月15日金曜日

日本の経済成長なんて、もはやあるわけないじゃん

 

経済産業省 令和元年5月20日、PDF


GDPにおいての人口に関する主要な問いは、総人口ではなく生産年齢人口である。この人口は日本においては1995年あたりから減少している。したがって日本の経済成長はもはやムリだというのが、学者たちの「標準的」見解である。


アメリカの潜在成長率は 2.5%弱であると言われているが、アメリカは移民が入っていることと出生率が高いことがあり、生産年齢人口は年率1%伸びている。日本では、今後、年率1%弱で生産年齢人口が減っていくので、女性や高齢者の雇用を促進するとしても、潜在成長率は実質1 %程度に引き上げるのがやっとであろう。


丸めた数字で説明すれば,、アメリカの人口成長率が+1%、日本は-1%、生産性の伸びを日米で同じ 1.5%と置いても日本の潜在成長率は 0.5%であり、これをさらに引き上げることは難しい。なお過去 20年間の1人当たり実質GDP 成長率は、アメリカで 1.55%、日本は 0.78%でアメリカより低いが、これは日本においては失われた 10 年といった不況期があったからである。


潜在成長率の引上げには人口減少に対する強力な政策が必要だが、出生率を今すぐ引き上げることが出来たとしても、成人して労働力になるのは20年先であり、即効性はない。今すべき政策のポイントは、人口政策として移民政策を位置づけることである。現在は一時的に労働力を導入しようという攻策に止まっているが、むしろ移民として日本に定住してもらえる人材を積極的に受け入れる必要がある。(深尾光洋『財政赤字・社会保障制度の維持可能性と金融政策の財政コスト』2015年)


この元日銀理事の深尾光洋氏は、移民の必要性を強調しているが、これまた事実上、移民の大量受け入れは島国根性日本ではムリだろう。


工夫したら持続的に実質 2 % 成長可能なんて言い続けている左翼政党があるが、基本的には、寝言だよ。


労働人口が毎年 1 %減る国で実質 2 % 成長を続けるのはかなり苦しい(持続的に労働生産性を 3 %上げている先進国はない)。(富士通総研、元日銀理事 早川英男 、2014,PDF)



繰り返せば、生産年齢人口は、既に1995年から下がっている。これが失われた30年の主要な原因である➡︎「失われた30年の嘘「失われる100年」」。



もっとも元東大の吉川洋氏は、人口減においても労働生産性(資本装備率と技術革新)の上昇があれば、経済成長は可能だと何度も強調している。以下はその代表的な記述である。



ここで改めて経済成長と人口の関係を長期的な視点から考えてみることにしたい。急速な人口減少に直面するわが国では、「人口ペシミズム」が優勢である。「右肩下がりの経済」は、経営者や政治家が好んで口にする表現だ。たしかに、少子高齢化が日本の財政・社会保障に大きな負荷をもたらしていることは事実である。少子化、人口減少は、わが国にとって最大の問題であるといってもよいだろう。


しかし、先進国の経済成長と人口は決して 1 対 1 に機械的に対応するものではない。図-4 は、明治初年以降の実質 GDP と人口の種類を比較したものだが、GDP は人口とほとんど関係ないといってよい成長をしてきたことが分かる。戦後の高度成長期(1955~ 70)に、日本が実質ベースで年平均 10% の経済成長をしてきたことは誰もが知ることだが、当時の労働人口の増加率は 1% 強であったということを知る人は少ない。両者のギャップ 10% - 1% = 9% は、「労働生産性」の上昇率だが、それをもたらしたものが「資本装備率」の上昇と、イノベーション(TFP の上昇)にほかならない。(人口減少、イノベーションと経済成長、吉川洋(東京大学大学院経済学研究科教授、経済産業研究所ファカルティフェロー、2015,PDF




労働生産性とは簡単に説明し難い概念、簡単に言うと誤解を招いてしまう概念だが、敢えてその危険を冒して図示すればこうなる。



さらにもうひとつ。



ベースはこの計算式であれ、どこをどう保留してこの式を捉えねばならないか等々については、とてもややこしい。興味のある方はネット上に種々のPDF論文が落ちているから参照されたし。その概要だってめんどくさいーーからここでは一切説明ヤメ。


とはいえ唯一の期待は、財務省の直近の資料(2021年10月5日)でも「労働生産性」だな。




ここに「のびしろ」はあるらしいよ、でもデジタル投資にこんなに遅れをとってしまったのはナンデダロウネ。かつてはあの世界に誇ったソニーの国だったのに。


唐突に、ここでもまた説明抜きでいえば、「共感の共同体」のせいじゃないかね。別の言い方なら、「春風駘蕩の国民性」のせいだろ、たぶん。



公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)


これを治すのはいまさら無理だね、なんたって桜の国ーー、切るといじける。切らないでいると、どこまでも枝を伸ばし、毒ガスを出して草一本生えなくし、誰にも嫌われる毛虫をふんだんに降らせるーー桜の国だからな。


いや、こんなシツレイな言い方をしてはダメだ。本居宣長に怒られるーー《しき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花》(上田秋成)ーー。いやいやシツレイ千万。穏やかに、母系的天皇制のもとの「土人の民」だと言い直しておくよ、ーー《連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。》(浅田彰「文学界」1989年2月号)


あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992



ところで日本の女性就業率ってどうなってんだろ、と探ってみたら、これは2016年のデータだが、たくさん働くようになったんだ、アメリカにも勝ってるや。




2019年だったらこれだ。



急上昇だな、GDP上げるのに、女性の就業率に期待したらもはやダメだってことだよ。


以上、この投稿は日本の経済成長なんて、普通に考えたら、もはやあるわけないじゃん、という記事でした。


1995年に海外に逃げた人間としてーー愛惜の情を隠蔽しつつーー「うろんな」ことを言わせてもらえば、世界一の少子高齢化社会におけるこれからの日本は「低福祉高負担」に耐えていかねばならない宿命にあります。みなさん、ガンバッテクダサイ!